癒されたい人が向かう所と寺の関係HappyLaughWinking


30年、40年前と比較してみると、この10数年?ぐらいの間に色々と目新しい「癒し」が登場した。香り、音楽、植物、色、ダンス、他にも色々ある様子だ。香りとマッサージのように、複数の素材を組み合わせたタイプもあり、多様化が見られる。施術する人は「セラピスト」や「ヒーラー」などと呼ばれている。

補完医療、代替医療の必要性が叫ばれている。上記の「癒し」もその一つと言えよう。辺りを見回すと、この世界を生業とする友人知人たちがいることに気づいた。親しい友人の中にもいる。私と同じ広告業界にいたその友人は、広告企画のスキルをフル活用し、補完医療の広報宣伝活動を行っている。また、アロマテラピー、オーラソーマを行う知人もいる。

これらの「癒し」が増えた理由を考えてみた。で、私の勝手な見解をひとつ。先の見えない時代、少子化、核家族化、他にも要素はあるだろうが、こうしたことにより、人は内向きになり、人と人との触れ合いが減り、コミュニケーション能力のない人までもが増えた。だが、反面、やはり人は人と接点がないと生きて行けない。心療内科に行くほどではない。だが、日常生活の中で知らず知らずに抱えてしまうストレスはある。友達とお茶を飲んで鬱憤を晴らすのもよしだが、”ため口の仲”では満足できない何かがある。とにかく一方的な「癒し」が欲しいのだ。嬢王様扱いで、敬語で対応してもらい、褒めそやさしてもらいたい、時にはお喋りはなしでいい気持ちにさせて欲しい。

という人たちが増えているように思えるのだ。こうした人たちにこれらの「癒し」術は完璧だ。私もリフレクソロジーやアロママッサージでリラクゼーションを満喫したいと思うことがある。

そして次にこんな新聞記事を読んだ。どこかの寺の住職が「あなたのお話お聞きします」という張り紙を寺の門に張り出したところ、次々と人が訪れているという。もちろん無料。

私の両親の世代は、説法を聞くためよく寺に出かけていた。幼い頃、私は何度も連れられて行ったことがある。仏教の話が理解できず退屈で仕方が無く、寺行きが苦痛の一つであったことを覚えている。また、何か問題や迷い事があれば、住職に話を聞いてもらうのだ、ということを明治生まれの祖父母が話していた。

「駆け込み寺」と言うぐらいに、寺は庶民の慰め、「癒し」の場所であったはずだ。だから、この記事を読んでも、今さら、という気がしてならない。デカデカと新聞記事になるぐらいなのだから、寺が本来的な役割を果たしていないということなのだろう。

先の「癒し」と「寺の無料人生相談」。何か頭の中で落としどころが見つかったような気がした。両者を因果関係に仕立てるのはいささか早計ではある。先の「癒し」はこの時代の流行りなのだと言ってしまえばそれまでだし、寺の低迷故にこれらの「癒し」が隆盛を極めているなどという見解はかなりの独断ではある。だが、もしも寺が昔からの「務め」を全うし、そのことに「精進」を続けていたなら、先の「癒し」の繁栄度合いに多少影響はあったかもしれない。

先の「癒し」は害のないものだ。だが、得体の知れない「占い」や「宗教」が幅を利かせる世の中になっている事実。ここに寺の現状が、少々であっても影響を与えているとは言えないだろうか。寺が地域の人々の心を見なくなったことが、何かこうした危機を示唆していると考えるのは、これまた早計だろうか。占いに人生を左右され、占いがないと行動できない人。宗教に全財産を貢ぎ、心も全て捧げ、自らの中心軸を見失った人。この何十年かの間、新聞その他で垣間みる出来事だ。

寺に代わる存在で言うと、先の「癒し」よりももっと寺に近いポジションは、臨床心理士や産業カウンセラーなどの心理カウンセラーだろう。私もこの資格を持つが、心理学の手法を用いるということを除けば、「対話」によって人を治していく点で、心理カウンセラーと寺は同じだ。

数年前、恩師の話を聞く機会があった。恩師は寺の未来を憂いでいた。神社は挙式その他の慶事でどうにか市民の役に立っている。だが、一方の寺の存続は危ういと。詳細を聞く暇がなかったが、最近ではセレモニーホールなど、「葬式パック」の業者が現れ、これまで寺が担ってきた弔事による利益が損なわれているのかもしれないと推測した。

「癒し」、色々な方法があってもよし、多様化、素晴らしいではないか、と思う。反面、古代から受け継がれてきた、寺という「癒しの場」は「仏閣」という単なる建物に過ぎなくなっていく懸念を感じる。檀家の数も減る一方だという。寺の親戚がいるという友達は、その寺が他の親戚にお金(お布施、寄付?)の無心をしていると言っていた。

私は無信教だが、仏教は押しつけの無い宗教、世界的にも比較的争いの無い宗教であり、素晴らしいことだと思っている。いつまでも人々の心の支えとなる場であって欲しい。心理カウンセラーも思い悩むことがある。是非そうしたときの受け皿になって欲しいものだ。

ふぉと逍遥[スライドショー]更新WinkingWinkingLaugh

ふぉと逍遥ページのスライドショーを更新しました。

寒暖の差、気温の上下の激しい今年の冬から春でしたね。農家の人たちも稲の植え時に迷いが生じる状況が続いていましたが、ここにきてあちこちで田植えの光景を目にするようになりました。田園風景にようやく春が訪れたように感じます。スライドショーにも田んぼの風景を入れてあります。水を張った田んぼは光が差してキラキラと輝き、あらためて「水田」であることを認識させられました。

犬も、それぞれ変化HappyLaughHappy

犬が複数いると、メンバーの変化とともに行動にも変化が生じるようだ。

写真はアオが生きていた頃。人間の就寝時間。メスのポチとウメは寝室のドア前で戸が開くのを待つ。アオはボス犬。彼にしてみるとポチとウメの行動はチョー、きゃぴきゃぴGirls。アオは我れ関せず、といった風情で落ち着き払い、「ったく、オンナたちの真似はできないや」とでも言っている様子。そして戸が開くや否や、Girls たちはベッド脇の床に置いた長座布団にまっしぐら。アオはドッグルームの長座布団で”門番”?Looks like he says, ”My first duty is to protect my House and Family.”


ボス犬らしき逞しさを見せたかとか思うと、ちゃっかりベッドに乗っかってくる時期も。「家と家族を守る役目はどうしたの?」。


そしてアオの死後、就寝時の行動に変化が訪れたのはポチ。寝室前で「開けて、開けて」行動をとるのはウメのみとなった。リビングの灯りを消してベッドタイムのサインを出しても、ポチは動こうとしなくなった。今やリビングがポチの寝室。


実はウメにも多少の変化が見られる。就寝時は人間と一緒に行動するが、かなり早朝にリビングへ向かうようになった。以前は夫か私のどちらかが起きるまで寝室にいることが多かったのだが。


そういえば、アオも早々とリビングに引き上げるタイプだった。ベッドに上がってきてもあまり長居はしなかった。ウメの行動はアオに近づいているのか。


寝ている時、犬たちは通常多少の距離を求める。一つの座布団に一匹だけ。寝る際のテリトリー意識か何かのように。だが、時には一つの座布団を分け合って休むこともある。距離を縮める事で精神的な距離も近づけようとしているのか。「私もあなたの群れの一員ですよ」とでも言っているのだろうか。

犬が複数いるからこその、心理的ドッグス模様。犬の家族は複数いる方が断然よい。ドッグウオッチングが楽しいという人間側の利益だけでなく、もともと犬は群れをなして生きる動物なのだ。姿カタチだけでなく色々な行動様式で異なる人間だけが群れであるよりも、犬を群れの一員に加え、自らが犬である事を楽しめるようにしてあげることも大切な「犬孝行」だと感じる。

犬のいる友人知人たちの中には、環境的にも愛情面でも2匹ぐらいなら養えそうな人たちが”かなり”多い。だが、そういう人たちはほぼ100%「無理、無理」と、真っ向から否定する。迷い犬であったポチを引き取った我が家も本当は1匹だけだったはずが、妊娠がわかり、一気に3匹の大所帯となった。無理という声を発する間もなく、といった方がいいぐらいだが、ポチが1匹の時とその後の3匹、実はあまり差を感じない。犬は犬同士で遊んでくれるから、人間は案外ラクチンなのである。皆さんも是非、一考を。

犬にKY はいない、かWinkingHappyHappy


KY。空気が読めない人のこと。今も時々耳にする。前総理大臣の麻生氏の場合は、漢字が読めない、というKYでおちょくられたこともあった(笑)。

KYは、別名「天然」、か?。グループ内で急に突飛な発言をし、周囲の人たちはどうも調子が狂ってしまったり、時には唖然とさせられるが、何かこう笑えるような場合。でも本人はいたって真顔(笑)。ある著名な人物が、KYなど気にする必要はないと言っていた。空気を読む人は単に多数派に迎合する人であり、個性がないと。なるほど、一面の真理かもしれない。だが、その場の空気を読んで「無難に」行動することも生きる術ではあるし、時にはそれがないと人間関係が立ち行かなくなることもある。

KYにイライラさせられるという人の話は時々聞く。私自身も経験している。KY遭遇時の感情は、KY度合いにより違う。やれやれという程度だったり、時にはカチンとくることも。酷いときはもうお手上げ、あんな人とはもうつき合えない、と感情的になったり。でも、最終的には、ま、我慢、我慢、あの人のKYが直ることはないんだからと考えるようにしている。

KYは人間の大人に特化したものなのか? 犬にはいないように思える。同様に幼い子供にもいない気がする。犬も子供も”敏感”に”空気を読む”。両者とも、人間の大人に囲まれて暮らし、大人に依存して生きている。だから常にセンサーのようなもので大人たちの言動、一挙手一投足をチェックしているのかもしれない。

犬の目は「何でもお見通し」とでも言っているような感じだ。目だけでなく、鋭い嗅覚からも状況を把握している。てんかん患者の介助犬は、倒れる2時間も前にそれを知らせるという。患者が倒れる時、患者の毛穴からある臭気が漂い、それが濃くなって倒れるらしい。犬はその臭気を覚え、まだそれが微量に感じられる時点で患者の袖を口でくわえて教える。訓練により2時間前からそれを”確認”できるようになったのだとか。2時間もあれば、患者はかかりつけの医師に電話で「2時間後に意識を失いますのでこれから病院に行きます」と電話をするだけで良い。す・ご・い。

2年前に死んだ我が家の犬アオも、結構臭気に反応していたように思う。私がちょっとでも緊張していると不思議な目線で私を見、しばらくそれが続くと前足で私の膝を軽く叩く。楽しくじゃれている時とは違う動きなので、あれ、と思う。そして緊張が極地まで高まると、今度は私のそばからいなくなる。緊張時に私の毛穴から何か不思議な臭いが出ていて、アオがそれを察知していたのではないかと思えてならない。我が家の他の犬とアオの違いである。アオが亡くなって余計にこのことを思い出す。

アクセサリー個展LaughLaughHappy


アクセサリーデザイナー、小前洋子さんが、東京広尾の「ヒト モノ コト」ギャラリーとの2人展を開催します。詳細は上記の案内写真をクリックして確認してください。

2010年4月22日(木)〜25日(日)まで。

小前洋子さんは、代官山で「アンジンクチン」という名のアクセサリー店を経営。その後、2002年に活動拠点をこのいすみ市へシフト。制作活動はアクセサリーにとどまらず、陶芸においても抜きん出た才能を遺憾なく発揮しています。都内からも陶芸個展のラブコールがあるとか。センスとパワーは瞠目に値します。今、一番元気な世代とも言えますね(^^)/.

親しい友人とはLaughHappyWinking


人生において人との出会いは大切な事。”袖振り合うも他生の縁”という。ここから始まり、終世の友となる予感の人もいれば、他生(たしょう)の縁が”多少の縁”、”少々の縁”、仕舞には”絶縁”となる人もいる。

20代、30代の頃の名刺用バインダーは膨れ上がる一方だった。名刺の数は数千枚。広告代理店、出版社という仕事柄だったのだろう。この頃は”袖振り合う”人を積極的に求めていた時代だった気がする。それがどんなに薄い縁、細い糸の縁であっても、それをたぐり寄せては、時にはこちらから出かけていって、とにかく貪欲なぐらいに人を求めていたような気がする。だが、30代終盤、40代になってからはあまり人との出会いに積極的ではなくなった。今考えると、あまりにもがむしゃらであった20代、30代の自分が不思議に思え、時には滑稽に感じるほどだ。

今の気持ちは”少数精鋭”、そんなところだろうか。あまり”袖振り合う”人を求める気持ちがない反面、何かのきっかけで新しい人との出会いがあるとワクワクする自分がいるのも事実。本来的には人間好きではあるから。出会い非積極的メンタリティとなった今も新しい出会いはある。この4〜5年でも頻発した。20代、30代の頃だったら、この新規出会いに対し積極的に働きかける私がいただろう。だが今は、冒頭のような「他生ー多少ー少々ー絶縁」的プロセスを辿るだろうという推測が、新規出会い後に数回話をした感触から”見える”ようになった(笑)。見えるというのは大袈裟にしても、友人というより知人止まりで終わるだろうな、というような感触を得ると言うべきか。

親友と呼べないまでも、比較的親しい間柄の人間関係を多く持つ人がいる。同世代にも結構いる。エネルギッシュで社交的とも。今の私はそれがないのだろうと感じる。少数の心の友がいればよい、そう考える私がいるのだろう。年齢的な要素もあるのだろうか。だが60代、70代になったら考えはまた変わるのだろうか。

それでも出会いは大切だ。知人止まりであろうが絶縁になろうが、人と接する機会が与えられれば、もちろん間違いなく真摯な態度で接する心づもりはある。

他人の口にご用心WinkingSadLaugh


人の悪口や愚痴を言う時、人はしばしば「他人の口を借りる」ことがある。例えば花子さんの悪口なら、「よし子さんもそう言ってたよ」とか、「美知子さんも似たような経験したみたいよ」と。グチっている人物をZさんとすると、二人の”同意”を得たZさんは「やっぱりみんな花子さんのことを変だと思ってるんだ」と意気揚々。だが、「他人の口」から出た”同意”を額面通りに受け取るのはいささか勇み足とも。

社会心理学に親和動機(affiliation motive)による同調(conformity)という理論がある。簡単に言えば、よし子さんと美知子さんはZさんに好意(親和)を持っているので、花子さんの悪口に同意(同調)したという理論。「絶対に花子さんはおかしいわよ、Zさん」とか「まぁ花子さんは変かもしれないけどね・・」など、好意の度合いによって同意の度合いや表現は異なる。もちろんZさんのストーリーに信憑性は必要だし、同意(同調)する際の動機は好意(親和)だけとは限らない。だがこの理論に敢えて当てはめると、この4人の関係は、どの人がどの人とより親和的関係が強いかが大きなカギになるということを示している。仲良しの関係性、魅力度合いの順位も親和に関係する。このあたりの要素により、どう発言するかのさじ加減が決まる。

問題は、常にZさん的人格になるタイプ=「クレーマー」と、常に花子さん的人格になるタイプ=「非常識人」。悪口の強弱?はともかく、友達グループの中で統計的に常にクレーマーとして名が挙がる人がいたら、その人の方が問題かもしれない。同様に、非常識人として常に名が挙がる人がいたらこちらも問題である。だが、欠席裁判よろしく、自分自身がどの程度悪口の対象になっているかはわからないし、統計は取りづらい(笑)。また、愚痴を言う時、誰もが自分を正当化したいもの。聖人君子などいないのだし、「ねえ聞いてよぉ」は人間心理そのもの。逆に愚痴一つ言わないような人は面白みもない。愚痴ばかりというのも困るが。

ここからの教訓は、友達の間で自分自身が「クレーマー」や「非常識人」にならないように心がけることと言えるだろう。また、クレーマーではないだろうかと謙虚に自分を疑い始めたならば、「他人の口」に関し、事の本質を見抜く訓練をすべきだと思う。「私に好意を持ってくれているから”社交辞令”的に同意してくれてるのかもしれない。果たして私の愚痴は本来的に正当なものだろうか」というように。うーん、でも、常にクレーマーモードで戦闘態勢に入っているような人は、そもそも本質を見抜く素質に欠けているのかもしれないが
(▼▼#)

自己反省も含め、皆さん、思い当たるふしはありますか?。

懐かしいディズニーLaughWinkingHappy

パソコン内の写真を整理していた先日、ディズニーシーのところでふと手が止まった。写真は2年前のちょうど今頃。母校が150周年を迎えた年。2008年はその記念祭として様々な催しが繰り広げられた。ディズニーシーでのイベントもその一つ。

昼過ぎのイベントはミッキーたちのステージ。うん、この年齢になっても、やっぱりこのキャラを目の前にすると「地」が出てしまう。ステージの最前列で身構えた私は千切れんばかりに手を振る。ダックのお尻がぷるぷる揺れるたびに「かっわい〜ぃっ」を連呼し、自らも両手を軽く握って胸の前でぷるぷる。仕草こそ大学生なみの「若さ」だが、見た目はもちろん思いっきり「オバさん」。一緒にいた友達が「玲子大丈夫?」と呆れ顔で声をかける。多少は自制していたつもりだったが、やはりキモイかもと。

その友人の目線には見覚えがある。何だっけ? そうだ、と思い出したのは成田空港でヨン様に手を振るハートお目目のオバサマたち。同世代ながら、彼女らの熱狂ぶりに首をかしげ、引いてしまう私がいる。オバサマたちへ私が放つ視線と友人の私への視線は、似ている(笑)。





夕方6時からは一般客の入場は不可。夜は母校一色となった感があった。黄色く見える光は、参加者に予め送付されていた150周年用ペンライト。ディズニーバージョンに編曲の応援歌に合わせ、ペンライトを左右に振る。老いも若きも皆一斉に。同じ学びのもと。成長しつつある現役学生。成長させてもらった卒業生。両者が一体となったイベント。一体感を味わった。


ディズニーシーでの記念イベント終了後、ディズニーシー・ホテルミラコスタで友達とディナー。楽しく美味しい一日。

創立200周年? ほぼ間違いなくこの世にはいないでしょうね。万が一いたとして、再度ディズニーで開催、となっても、「かわい〜ぃ」と言いながらのぷるぷるは命取りかも(笑)。

京劇より歴史の古い崑劇LaughWinkingHappy

友人のプロデュース、後輩の公演、という組み合わせで、中国古典芸能である「崑劇」が催されます。4月29日昭和の日です。場所は吉祥寺。是非出かけてみてください。

パンフレット表
パンフレット裏

日本では「京劇」の方が知名度は高いのですが、世界的には「崑劇」の方に軍配が上がる様子です。崑劇は600年の歴史を誇り、脚本で使われる言葉もその古い歴史が物語るように上品で美しく、2001年にはユネスコ世界文化遺産に指定されました。

演ずる「陸海栄」氏。彼は中国が国を挙げて認める崑劇のエリートです。中国で崑劇の英才教育を受け、中国の大学を卒業し、その後来日し、日本でも学生に。彼は崑劇を日本で広めるためにやってきた、パフォーマー兼「崑劇大使」といえます。何度か彼のステージを拝見しましたが、表情と手の動き、そして身体の柔軟さに圧倒されました。陸氏の動きに全く無駄が無く、崑劇をよく知らない私にでもすごく楽しめました。楽屋でお会いした際、逆三・厚い胸板の体型に納得したものです。顔はすごい美形なんですよね(#^.^#).(パンフレットをご覧下さい)。

*お知らせの2つ目。「ふぉと逍遥」スライドショーを更新しました。

サード・オピニオンもありGaspSadHappy

ペットの病気、ペットの死。いつかは向き合わざるを得ないし、避けては通れない。ペットが病気になったらどういう治療をし、どの治療は避けるのか、これらの選択も迫られる。金銭面との兼ね合いもあるだろうが、何よりも動物に対する生き方哲学、動物に対する死生観が問われる時である。哲学であり死生観がカギであるということは、これらに対する価値観が獣医と飼い主の間でイコールであることが望ましいということでもある。

友達Kの飼い犬に良性だが腫瘍があるという。乳癌の疑いがあるらしい。Kの獣医は腫瘍を取り除くのはもちろんだが、8〜10もある乳房を2回に分けて全て取り除き、その後は抗癌剤で治療をするべきだという。

Kと話をした私はその獣医に違和感を持った。Kも同様で、私も含め何人かの友達に相談をしてみたらしい。友人間のアドバイスで共通したのは「セカンド・オピニオン」。当然だろうと思う。

犬や猫にインフォームド・コンセントを行うことは不可能だ。人間ならば、入院から切除手術まで、そして抗ガン剤治療による副作用の嘔吐や下痢、脱け毛などについて説明をし、その上で「了解」を取る事ができるが、動物たちにはあり得ない作業だ。動物にも副作用はある?だろう。すると犬猫たちは、動けない、食欲が無い、吐き気が激しい、毛が抜ける、など、自分の身に起こっている事を理解するのではなくただ「苦しみを受け容れる」だけだ。

同じ「苦しみ」であっても、避妊手術や去勢手術は一時の「我慢」で済む。獣医の診察台に昇る恐怖、術後に麻酔が切れてくるときの不快感、患部の違和感、ウザイと感じながらも付けさせられるエリザベスカラー、抜糸のために再度昇る手術台の恐怖。一時とは言ったが、何をされるのか皆目見当がつかないままの犬猫にしてみれば、これでもかなり恐怖のオンパレードだ。それでも、これらの手術に関して言えば、その後の「楽しい生活」が約束されているから、飼い主がペットに成り代わってインフォームド・コンセントを受けた気持ちになれ、その治療を確信を持って「了解」できるから実行に移せるのだと思う。

避妊や去勢のように手術自体が一般化して長い歴史を持つものと違い、動物のガンはどうなのだろう。その知識は私にはない。だが、人間の治療に置き換えて考えると、乳癌治療は3年5年10年単位で対処する。人間の7倍近くの速さで歳をとって行く犬猫たちの場合、それはどのぐらいに置き換えればいいのだろうか。苦しい期間は?どんな副作用が?それに関する臨床データはかなりの数になっているのか?動物の心理との兼ね合いでの研究は?などなど。病気になってから亡くなるまでの間は、ただずっと治療と副作用の連続で終わり、元気よく駆け回る姿はないままに亡くなった、というようなことにはならないのだろうか。治療後の「楽しい生活」を信じて飼い主が決断したはずが、ペットはただ苦しみ、動物らしさが欠落し、飼い主の満足は、せいぜいペットが腕の中で亡くなったことだけ、などということはないのだろうか。もしもこれが現状なら私個人の意見としては、苦汁を強いる生活を愛するペットたちに送らせたくはない。

人間への医療ですらまだ未知の部分が多くあるというのに、動物に関してはもっともっと遅れていると考えた方がよいように思う。人間ですらセカンド・オピニオンがあるのだから、動物に関してはサード・オピニオンぐらい考えてもよい気がする。

獣医の意見を聞きながら、最終的に自分たちの気持ちを固めて行く作業は決して気楽ではない。時には重々しい決断を迫られることもある。というのも、私自身がそれを経験しているからだ。3年前の夏、獣医と相談の上、飼っている猫に安楽死をお願いしたことがある。名前はチビ。糖尿病にかかり、極端に微量のインスリン注射と砂糖水が行ったり来たりという状態になった。骨と皮のような姿になり、おぼつかない足元。快活に歩くという姿からはほど遠く、「猫らしさ」は消えていた。

それでも外に出ようとはするが、よろよろっと倒れたり起き上がったり。野良猫は姿を隠して人知れず死んで行くという。だが我が家で生まれて育った飼い猫のチビは、出かけるといっても敷地内であり、人間から見えるところで倒れて動けなくなる。そのまま放っておけばたぶん24時間以内には呼吸も止まるのだろう。だが我々から見える位置にいるチビが息絶えるのを24時間見守るなんてことはできない。この人間側の気持ちがインスリンと砂糖水の行き来を継続させていた。だが、もう長くはない。それが明白なのであれば、チビに苦しい日々を与え続けるよりも、獣医さんに安楽死をお願いしよう。それが夫と私の結論だった。決めたこととはいえ、心が張り裂けそうになった。頭は空っぽなのかいっぱいなのか、とにかく何も考えられなかった。涙が出て止まらず、獣医さんたちの手前であることなど関係なく、わぁーわぁー泣いた。

私たちにできたせめてもの償いは、最期は獣医ではなく家で死なせてあげることだった。獣医さんに出向いてもらい、いつもチビが過ごしている寝室のベッドで、夫と私に囲まれて、いつもとまるで変わらない環境の中で静かに眠らせてあげようと思った。そのぐらいしか思い浮かばない私たちだった。

それでも、獣医さんが打つ注射にチビがちょっと抵抗した時のことを思い出すと、今も時々自分たちの選択は間違っていなかっただろうか、チビはヨタヨタであってももっと生きていたかったのだろうか、我々から見えるところで行き倒れになって死ぬ事の方を望んでいたのだろうか、などという、自分の決断を否定するネガティブな気持ちが頭をもたげた。それは今も時々起こる。安楽死に後悔はない反面、チビの遺影に向かうとそのことを問いかけてしまう。それでも今ではようやくチビの遺影に向かって「これでよかったと思ってるよ」と言えるようになった。

ペットの病気に対する対処。確信を持って結論を導いたつもりであっても、その後迷ったり悩んだりするのは人間の心情として当然のこと。「正解」はないのだから。だがその迷いや悩みを少しでも軽減させる意味で、セカンド・オピニオンやサード・オピニオンを求め、また友達に相談すればいいのだと思う。ピース・オブ・マインド、つまり飼い主自身の心の平穏のためにも有数の「意見」を聞き、自分たちなりに資料を集め、最終的判断を下す。これが後悔を減らす役割になる。

ピンピン・コロリという死に方は、人間の願望だけでなく、ペットにも当てはまる。だが、動物も長生きする時代になり、その保証は無い。人間と同じ病気にもなる。また長生きにより介護が必要な動物も増えてきた。死生観が同一の獣医であること。今後、もっともっと真に迫ってくることだろう。

「Kさん、大変だろうけど愛する家族のためですから、頑張ってね」