スライドショー更新WinkingHappyLaugh

ふぉと逍遥スライドショーを更新しました。よ・う・や・く、の更新といった方があたっている感じです。言い訳をするならば、梅雨ってあまり撮影をしない、んですよね。雨ばかりの風景もいまいちになります。それでも雨はまだいいのかもしれません。ずっとどんよりした曇り空だとなんかこう撮影意欲も減退、です。でも色々と楽しい写真が撮れました。ご覧下さい。


産地直売で購入したアーティチョーク。塩ゆでした後、塩こしょうとオリーブオイルをふりかけ、オーブンで軽く焼いて食べました。元々食べる部分よりも捨てる部分が多いアーティチョークですが、これまで食べてきた中でも今回のものはかなり身が少なかった気がしました(悲)。と言いながらも美味しくいただきましたが。


梅雨の晴れ間に久しぶりに伺った家。友人が設計した家です。設計者のセンスも素晴らしいけど、家主も素晴らしい。家を楽しく使っている人、満足して暮らしている家ってなんとなくわかるものです。家に一歩足を踏み入れた途端に漂う「あ、なんだかいいな」という暖かさ。そして中に招き入れられ家主が入れるお茶を着席して待つ間、ふと途絶えた会話がもたらすちょっとした静寂の”間”、そこにそこはかとなく漂う柔らかさがあり、「あ、いいなぁ」と思うのです。


リビングの中央に位置するビリヤード台。私も久しぶりにキューを手にし、プール遊び。10年ぶりぐらいでした。


細長い蜘蛛。糸を引いているから蜘蛛だろうと推測。名前はなんだろうと思ってグーグル検索。

こういう時、数年前の同窓会で久しぶりに会ったT君を思い出します。高校で生物の先生をしているT君。田舎暮らしは自然の生物との共存。わからないことをたくさん彼に質問しまくり。立て板に水のごとく返ってくる回答。有り難さと同時に羨望も。こんなことならもっと生物の授業をマジメにやっておけばよかった、教職でそちら方向を考えたらよかったのに、と反省。でも思い返すと、生物の先生の授業が方程式やら数式の連発だったことでどーも興味を持つ事ができず、なーんて言い訳をもT君に。なんとT君も私と同様の思いをした様子。生物なのに何故数式ばかりなんだ、と。でも彼は大学で面白さを再発見した様子。私はぺらぺらっと見て、やめた側。分かれ道ですねぇ。しかし、田舎暮らしは、一家に一人の生物の先生がいると便利、です。ホントに、はい。

梅雨明けした沖縄。昨日ようやく梅雨入りした東北。梅雨前線と夏の高気圧のせめぎ合いが続き、関東はまだもうちょっと梅雨とのお付き合いがありそうです。食中毒に注意しましょうね。

切っても切れない仲、センセイたちと東電Foot in MouthEmbarrassedSad

原発推進に対するアンチテーゼ的な深い意味を持つに至った世界的な言葉「フクシマ」。未来的電力供給においては、まだ原発事故の無い欧州の方が「脱原発」への意向を固め、原発事故の余波に多くの人々が翻弄され続けている日本の方が何故か「原発維持」を掲げる。昨日のブログの主旨である。

さて、そうした中、国会では「菅降ろし」に血道を上げるセンセイ方が盛んに動いている。辞任の時期が争点となり、ペテン呼ばわりする鳩山氏、終始シカトを決め込んでいるかのような小沢氏など、内部分裂も顕著だ。

菅首相の物足りなさ、リーダーシップの無さを感じる人は多いだろう。ニュース報道を見ていても確かにそのように見えることが多い。且つて、婦人参政権運動を主導した市川房枝(故人)を担ぎ上げ、彼女の事務局長として活躍した市民運動上がりの菅直人氏を知る私には、あの頃の立て板に水の如く小気味よいスピーチを投げ、聴衆の心をがっちり掴んだ頃の菅氏と今の菅氏が同一人物だとは到底思えないぐらいだ。これでは誰が首相になっても変わらないと非難されても仕方がないだろう。当時の歯切れの良い言葉はどこへ行ってしまったのだろう。

だが、である。良き時代の姿は見る影も無し、という誹りは免れないとしても、浜岡原発停止はやはり菅氏でなくては出来ないことではなかっただろうか。実際、菅降ろしが民主党内で顕著になったのも浜岡原発停止宣言の後である。財界の中心を担う東電、東電ベッタリの経済産業省、自民党中心の長期政権による権力図、この鋼鉄のトライアングル構造こそが原発維持を可能とさせた証拠だと思う。自民党を離れたとはいえ、小沢氏も鳩山氏もそこにいた。福島で原発を推進してきた渡部恒三氏、電力業界との縁が深い小沢氏が合同で誕生会を開催したと漏れ聞く。民主党内には元自民党が多く、また電力業界と縁の深い議員は少なくないのだ。そんな中に全く自民党色の無い、市民運動出身の菅直人氏が合流しても、明らかに民主党は”野合”与党政権である。そして、浜岡原発停止はその市民運動上がりの菅氏であったからこそできた技であり、鳩山氏や小沢氏、渡部氏が首相の座にいたならば、あり得ない決断だっただろう。

原発推進に関しては自民党はもっとあからさまな感じだ。不信任決議案提出の際に自民党の谷垣総裁は、「原発をめぐる首相の言動が念頭にあったことは間違いない」と明言する。また石原幹事長は、「日本の電力の3割が原発によって賄われているのに、科学的検証もないままやみくもに原発を止めた」と非難する。そう、自民党の菅降ろしは原発ストップが原因だと告白しているのである。

そしてマスコミ。昨日のブログで示したように、脱原発的報道も適度には流すだろうが、「現状維持」が大衆の心理となるよう”調整”はしているだろうと推測する。なにせ年間2,000億円の広告宣伝費。群がるマスコミ各局が見えるようだ。フジテレビ、産經新聞、ニッポン放送を傘下に置くフジは、元東電社長の南直哉氏を今も監査役に置いている。2002年の原発事故の情報隠しで東電を辞任した南氏だが、そうした不祥事があった人物であっても尚「留任」させているのだ。彼を置いておくこと自体がオイシイ何かを運んでくれるのだろう。

先の鋼鉄のトライアングルには、本来は正義の剣士として権力のお目付役とならねばならないはずのマスコミまでが加担している構造。鋼鉄の四角形か。これでは脱原発論者が顔を出すことは難しい。

以前このブログでも紹介したように、原発による電力供給がなくとも日本はやっていけるという試算がある。火力と水力の電力総容量で需要を賄えるのだ。原発は国策だったため、風力と水力の一部を原発に移行させたというのが実情だ。そして火力、水力、原発がそれぞれ三分の一ずつになった。国策としての原発は上述したような鋼鉄のトライアングル(マスコミも含めた四角)構造の上に成立している。このことが意味するのは、そう簡単に原発から自然エネルギーへとはいかないということ。センセイたち、マスコミたちが伝える自然エネルギー方針は、火力の一部を、或いは水力の一部を自然エネルギーということがメインだろう。或いは脱原発議論の矛先を巧みにかわすために、原発のほんの一部だけを自然エネルギーにという戦略はあるかもしれない。だが決して「ゼロ原発」ではないだろう。

温暖化ガス問題で形勢が悪い火力発電、水という自然資源の枯渇(浪費)という点で風向きが悪い水力発電。国会のセンセイたちもマスコミも、原発反対に対しこのネガティブ要素を突きつけてくる。そして原発はエコだと結ぶ。脱原発を突きつけようとすると、先のネガティブ要素ばかりにスポットを当てる。そして、原発ストップがイコール経済低迷や消費税アップになるかのような雰囲気まで醸し出す。昨日の繰り返しだが、誰も電力供給のストップを望んではいない。だが、マスコミにマイクを向けられた工場主なら「機械を止めると生産性が悪くなって」となり、暑い中で町を歩く人なら「夏に計画停電はしんどいすよ」となるのは当たり前。すると、原発がないと電力は足りないのだ、という誤った認識が人々の脳裏に焼きつく。

火力と水力を反エコのように扱うが、匂いも色もない悪魔の空気である放射線を放つ原発のどこがエコだというのだろう。原発を自然エネルギー発電に切り替えていく期間中は、一時的に反エコになろうとも火力と水力で賄う。しかし、欧州のように経済も上昇し温暖化ガスもすぐに減っていくというような試算。こうしたシミュレーションは大学教授を中心とした良識ある科学者たち(東電お抱え教授ではなく)が様々な所で発表している。だが、真のジャーナリズム雑誌やYouTubeなどでこうした人たちのことを垣間みることはあっても、マスコミは登場させようとはしない。そして総括的に最後に残る大衆の心理としては昨日書いたような、『原発はイヤだけど、福島原発事故のようなことはもうさすがに起きないのでは。今回の事故を機に電力会社も安全対策に最善を尽くすだろうし。今、一気に全部の原発を止めるほどのことはないと思う』となるのだろう。

私はもう53歳。大きな事故や大病を患わなければ、あと30年から40年。長いといえば長いが、今回のフクシマによる病気で苦しむことはほとんど考えられない。子供もいないので我が子や孫の未来を憂うこともない。だが、10代、20代の若者たち、幼い子供子たち、そんな彼ら彼女らは次の世代を産み育み、両親になり祖父母になる。この時のスパンは今後100年、150年以上を考えなくてはならない。今後の原発政策はそうした若い人たちに大きな影響を及ぼす。今の若者たちが大人になり中年になる、今の子供達が親になる、またその後に産まれる人たちがいる。そこまでの時代を考えるべきだ。今後の主役はそうした人たちであるにもかかわらず、原発を牛耳るのは国会にいるオジサン(オバサン)たち、オジイサン(オバアサンはあまりいないか)たちだ。私と同様で死因がフクシマとなることは到底考えられない年寄りたちが、自分たちの私利私欲のために原発を動かしている。後世に何を残すのかではなく、今何が自分にとってオイシイか、が大切なのだ。

今、もしあなたが、本来的には「主役」となるはずの人たちの「両親」、あるいは「祖父母」の立場であるなら、後世に何を残すかをしっかりと考えて欲しい。そして若い人たちには事の本質を見抜く力を身につけて行って欲しいと、心から、心から思い、願う。

フクシマ、悪は「政治」か「国民性」かSadFoot in MouthEmbarrassed

福島県を超え、日本という国を超え、もはや世界的に重要な意味を持つことになった複合的名詞「フクシマ」。このフクシマをめぐり、世界では脱原発論議が交わされている。2022年までに原発全廃を決めたドイツ。1990年代に既に脱原発を実行に移しているスウェーデン。風力発電を重視するデンマークは、2050年までに化石燃料から脱却し自然エネルギーへ切り替える方針を打ち出した。

まだ原発事故が起きていない国々が脱原発なり自然エネルギー切り替えという英断を行う。一方、原発事故が起きた当事国の日本はいまだにグレーゾーン。原発廃止にしていく方針かどうかを取材した際、原発立地の都道府県首長の中で「廃止」を明言した者はいない。しばらくは原発に頼ったとしても未来的には「廃止が望ましい」と唱えた者もいない。菅首相の一声で停止となった浜岡原発だが、地元の人のインタビューを見ると、首相の停止命令を英断と捉えている様子はあまりない。諸外国と日本におけるこの危機意識に疑問を感じるのは私だけだろうか。

誰もが言う、「経済が低迷するのは困る」とか、「電気が供給されないと困る」という判で押したような意見。確かに皆困ることだ。だが、絶対に返ってくるであろう当然の回答のためにいちいち取材する必要があるのだろうか。必要なのはその上で何を選択するかである。でないと、未来への方向が定まらない。

原発全廃決定のドイツ。中道右派のメルケル政権は元々原発維持側だった。だが、フクシマの後、世論が一気に脱原発に傾いた。脱原発を推進する緑の党が躍進。政権を奪われまいとするメルケル氏が緑の党を封じ込めるためにとった戦略である。つまり、100歩譲るなら、政治の道具(票集め)となる原発という点ではドイツも日本も同じだと言えるかもしれない。

そうなると違うのは世論なのか。経済低迷はノー、電気供給無しはノー、計画停電もノー、という街頭の声、企業の声。こうした声が中心になってしまうと、次のような大衆心理が産まれる。『原発はイヤだけど、福島原発事故のようなことはもうさすがに起きないのでは。今回の事故を機に電力会社も安全対策に最善を尽くすだろうし。今、一気に全部の原発を止めるほどのことはないと思う』。

こうした人々は、かつて無い犠牲を今も尚支払続けている事実をどう感じているのか。「フクシマ」が私たちに突きつける事実。それは、暮らしている地から引き離された人々。また今後何十年もその地に帰れないであろう人々。一次帰宅の際に目にしたのは、牛や馬、ペットの犬や猫がやせ細り、変わり果てた姿で餓死している場面。福島県民だけではない。野菜が売れない、魚が売れないと、風評被害に泣く福島以外の県民。また、日本への旅行者が減り、日本から去って行く外国の人々、また日本産の農作物が敬遠され、日本自体も世界的な風評被害に遭っている。でも、フクシマが起きる事はないと言うのだろうか。

日本にも脱原発を訴える声はあり、そうした報道も少なからずなされているはずだ。にもかかわらず、政治家のセンセイたちが脱原発に向かわないのは、日本の世論の動きが必ずしも脱原発ではないからなのか。日本人の国民性と言われる、「お茶濁し」的側面のためだろうか。事を荒立てずにうやむやにする気質が、原発事故ですらも「まぁまぁ、脱原発まで極論にしなくても」というような雰囲気を醸し出しているのだろうか。

或いは、マスコミ操作が巧いのか。年間2,000億円と言われる電力会社の広告宣伝費はオイシイ。だが、現状維持ばかり報道するのは見え見えだから、適度に原発反対の論客を登場させる。だが総括としては脱原発にならないように”調整”する。経済低迷や酷暑の夏の計画停電などネガティブ要素を臭わすことにより、人々の心に原発維持が浮上してくる。それが”調整”の効果。果たしてそうなのかどうか。マスコミの戦略を見透し、「おっとっと、それはくわなの焼き蛤ですゾ」と言える日本人はどのぐらいいるのだろう。

脱原発で経済低迷を余儀なくされるのはドイツも同じである。だが何故、世論の脱原発が勢いづくのだろう。政治、マスコミ、日本人の国民性、果たして何がニワトリで何がタマゴなのか。

だが、本当に”低迷”するのか。自然エネルギー政策の甲斐があってか、デンマークのエネルギー消費は80年代以来横ばいだった。一方の経済は着実に拡大した。スウェーデンに至っては、90年から17年間の温暖化ガス排出量は9%減り、逆に経済はこの期間で5割ほど拡大した。同期間の日本はというと、経済は3割弱の拡大、温暖化ガス排出量は9%も増えたという。

人がつくったものにもかかわらず、人が制御できないようなもの、そもそもそうしたものに頼って生きて行く必要があるのか。最も基本のところに立ち返って考えるべきだと痛感する。