”変化”は絶対に必要なのかWinkingHappyLaugh


我が家のデッキから見える眺め。訪れる誰もがこの自然の壮大さや荘厳さに圧倒され、言葉すら飲み込んでしまう景色。もう7年近くも毎日この景色と暮らしているが、全く飽きる事が無い。ここに住まわせてもらっていることに本当に感謝する毎日である。ゲストたちが決まって言うセリフも「毎日見ていても飽きないでしょう」である。

そして、次も何故か決まって、「自然は毎日変化していますから、毎日何か新しい発見がありますよね」とくる。これまでは私もついつい同調していた。”ついつい”と言うのだから、本当は否定すべきところだったのである。先のセリフへの応答に、「毎日新しい発見というのは不可能です。自然の変化は遅々としていることが特徴なんですから、四季の変化は別として、昨日と今日の違いなんて発見できるわけがありません」なーんて言ってしまうと会話はぶつ切りで、そこで終わりになるから決して言わない(笑)。「四季の変化は別として、毎日毎日という変化は鈍い感性の私には発見できませんが、逆に変化のない自然、ゆったりとしていて変わらない、そのことが素晴らしいと感じています」という主旨を伝えることにしている。

だが、何故人はあんなふうに言ってしまうのだろうと考えてみた。一つは詩的な意味合い。”自然は変化し、毎日新しい発見が”。耳に心地よく美しい文である。招かれた客が礼儀として発する完璧な賞賛言葉であり、会話として成立しやすい事実もある。「変化がなくていいですね」は確かにスムーズさに欠ける。

だがもう一つは詩的とは真逆の世界である。それは世の中全体の「変化」を肯定的に捉える風潮だ。米大統領オバマ氏が”チェンジ”を唱えるずっと前から、人間世界では変化が基本だった。変化を代弁する表現は枚挙にいとまが無い。以前と異なる、前とは違う、進展する、新しいことに挑戦、生活を良くする、大学に入る、就職する、婚活する、家族を作る、経済を良くする、ボランティア活動をする、サステナビリティのある社会にする、などなど。つまり人間界の営み全ては「変化」に結びついているのだ。何もせず、変化を求めようとしない人は否定的に見られる。こうした人間世界の活動が、人々の潜在意識に「変化」は「最良」ということを刷り込んでいるのではないだろうか。

デッキからの光景を見てのコメントも、口が開いた途端、自動的に潜在意識下にある「変化は最良」が起き上がってくるのではないか。毎日見ていても飽きないのは毎日変化しているからであり、毎日の変化がないことは飽きるという意味に繋がるため、人々は前者の主旨に見合う褒め言葉を言わなくてはならない。鈍いほどにゆったりとした動きで、悠久の歴史とともに歩んできた自然。重箱の隅をつつくようで申し訳ないが、昨日と今日の変化を語りたいのは新参者の人間ぐらいかもしれない。

「変化」を是とする風潮に抗うもう一つのこと。May no new thing arise. 日本語直訳だと、「新しいことが何も起きませんように」となる。海洋冒険小説家で歴史にも詳しいパトリック・オブライアンの小説によく出てくるセリフだ。ハリウッド映画の『マスター・アンド・コマンダー』にも出てくる。夫が先のセリフを我が家に来た若いゲストたちに投げかけたところ、奇妙な顔をされた。つまり引いてしまったのだ(笑)。若い人たちにしてみれば、毎日新しい変化が欲しく、新しいことに出会い、新しいことに挑戦して行きたい世代である。そこにいきなりアレなわけで、いぶかしく思うのは当たり前。どこかの「お爺ちゃん」が発する言葉という風にも感じられただろう(笑)。

オブライアンの小説によると、このセリフはスペインのカタロニア地方で使われたのだそうだ。スペイン語ではQue no haya novedad. 伝記作家、歴史にも詳しい彼のことだ。このセリフで家族を送り出したり、友人知人と別れ際にこのセリフを投げかけたりという事実に基づいた言葉だったのだろう。

変化こそ素晴らしいという時代。確かに変化は大切なことである。だが、変化を礼賛し過ぎるが故に、「変化無し」を「良し」とする表現が手薄になり、乏しくなってはいないだろうか。オブライアンのMay no new thing arise.は、「変化無しの良さ」を豊かな表現力で表しており、静かだが深い感動を心に刻み付ける力を持っている。或いは私も既に「お婆ちゃん」の域に入ったのかもしれないが。

しかし、巧い日本語訳が見つからない。英語を日本語訳にする際、日本語には豊かな表現方法が数多くあるのだが、現時点ではお手上げ状態だ。「昨日と同じ一日でありますように」をちらっと考えたが、いまいち雰囲気が伝えきれない感じがある。

「子供」と自分の人生WinkingHappyLaugh

私には子供はいないが、特に後悔はない。子供がいたら、それはそれで楽しかったのかもしれないとは思うが、子供のことで深刻な悩みを抱える友人知人の話を聞くと、子を育むということは決して簡単なことではなく、育て上げるという重要な責任・義務を伴っているのだと感じさせられ、私には不向きな”業”であるようにも思えてくる。

ジャック・ニコルソン主演の
『アバウト・シュミット』2002年は、”自分軸”から「子供」を見つめる意義深い映画である。監督はアレクサンダー・ペイン。

何十年もの間一流保険会社の計理士として働いてきたウォーレン・シュミット(ニコルソン)。そして定年を迎える。大勢の部下や同僚の暖かい拍手で見送られるシュミット。若手に引き継いだ仕事のことも気になり、後継者の質問攻めを期待して会社に赴くが、元職場は全く問題なく運営されており、肩すかしを食らう。そればかりか、シュミットの書類がガレージで山積みにされており、焼却処分を待っている状態。66歳のシュミットはもう不要だと言わんばかりに。そして追い打ちをかけるように今度は妻の死。

妻に先立たれたシュミットに残された家族は最愛の一人娘ジーニー。だが、ジーニーも間もなく結婚をする運びに。シュミットは娘の婚約者ランドールを好んではおらず、結婚式が目前に迫りつつあるというのにも拘らず取りやめを哀願するぐらいだ。もちろん娘のジーニーは呆れ返る。

そんな中、アフリカの恵まれない子供を支援するチャリティ団体をテレビで知る。月々22ドルの支援。手紙と小切手を添えて送る。彼が支援する子供の名は「ンドゥグ」という6歳の男の子。会社組織には不要の身、妻の死、ロクでもない男と結婚する娘、四面楚歌、あるいは逆境とでもいうのか、自分自身を見失いそうになる中でンドゥグは彼の生き甲斐となっていく。折に触れ、シュミットは何度も手紙を書いた。憤懣を書いては破り捨てることもある。だが、手紙を書く事で彼は心のバランスを取っていたのであろう。

サラリーマン人生。自分は会社にとって何だったのだろうか、何かを残せたのだろうかと自問自答する日々。そして伴侶の死。定年後の妻との楽しい引退生活も泡となって消える。仕事人生の中、妻に何をしてあげられたのだろうかとまたまた自問自答する。子供の結婚。好みの娘婿ではないが、愛娘が選んだのだからと、諦めにも似た気持ちで”無難”なスピーチを結婚式で披露するシュミット。サラリーマン時代も平凡だっただろうシュミットの、定年退職後もまた平凡である人生。その平凡な人生とはなんと素晴らしく得難いことなのだろうという、とても奥深い映画だ。

エンディングのシーンは秀逸。ニコルソンだからこそ演じられたと言っても過言ではない気がするぐらいである(ネタバレですが)。何度か送り続けた手紙に対し、チャリティ団体から初めて手紙が届く。手紙は団体の事務局が書いたもの。ンドゥグは文字の読み書きができない。返事が書けない代わりに一枚の絵を描き、それが同封されていた。青空の下、大人と子供が手をつないでいる絵。カメラアングルはシュミットの顔のアップ。絵を見る彼の表情がゆっくり緩み、泣き笑いにも似た涙顔になる。その絵に何を感じたのか。どんな愛やメッセージが汲み取れたのか。察するに、たぶん監督は「あなたの思うように、どうぞ」とニコルソンに投げかけたのではないだろうか。

未来のいつか、その日が来るか来ないかはわからないけれど、こうした「子供」の持ち方も悪くないなと感じる。

スライドショー[ふぉと逍遥]更新WinkingWinkingLaugh


スライドショー「ふぉと逍遥」の写真を更新しました。
テーマを毎回決めているわけではありませんが、今回は家の周囲を中心に撮ったものが多くなりました。緑が美しい季節ですので、ページ名が語る通り、まさに逍遥しながら、家のあちらこちら、家から見える大自然から小自然を、存分に堪能しつつシャッターを切りました。写真の途中に動物たちを登場させ、癒し感をより深めたつもりです(^^).是非ご覧下さい。

シンフォニー演奏会のチケットWinkingHappyLaugh

友人から交響楽団演奏会のチケットを数枚いただきました。ベートーヴェン、カリンニコフの交響曲が予定されています。5月16日(日)、場所は千葉県茂原市民会館です。詳細は茂原交響楽団ウェブサイトからどうぞ。

先着4名までの方にチケットを差し上げます。もちろん無料です。人数が満ち次第締め切りといたしますので予めご了承ください。

連絡先:私の個人のメールアドレスをご存知の方はそちらにお願いします。
ご存知でない方は、info@fukigarasu.com をコピペして連絡してください。

もてなしWinkingHappyLaugh

東京時代の社交はもっぱら「外食」。「家」に招き招かれ、ということもあったが、「外食」の数とは比較にならない。2人だけなら思いつきでレストランやバーに電話。4人位になると事前にテーブルを一つ予約。そしてそれ以上の人数の場合は、レストランの一室貸し切り予約、貸しパーティ会場を予約など。現地待ち合わせの現地解散。一部の盛り上がり族は解散後、飲み直しにもう一軒、もう一軒と、夜のネオンに消えて行く。

それが田舎暮らしを始めてからというもの、上記の比率は見事に逆転。社交の8〜9割は「家」になった。家とは、もちろんこちらの田舎サイド。東京から人々がこちらにやってくる。親しい友人たちは泊まることが多いが、東京駅から特急で1時間という距離は日帰りパーティをも可能にする。そういえば何度も日帰り客をもてなしたことがあったっけ。

東京での社交、田舎での社交、どちらが好きか。もちろん後者だ。今も東京に出かけるのは楽しい。でも、自然を満喫しながらの語らいは、心と身体の心地よい弛緩が得られる。東京で会った時よりも、人はより「本音」と「素」を披露してくれている気がする。

このGWも社交の日々。我が家もゲストが。そして、こちらで知り合った東京からの引っ越し組友人宅にも招かれた。彼女らはもてなし上手。料理から立ち居振る舞いに至るまで、いつもお手本にさせてもらっている友人。東京からのゲストの皆さんも、とても楽しく素晴らしい人たち。今回は持ち寄りパーティ。ピクルス、手作り味噌、手作りケーキ、などなどなど。そしてバーベキューも。東京から持参の食材は、なんと築地調達だとか。ス・ゴ・イ。友人宅の敷地内で採れたタケノコもバーベキューに。とても美味しい旬の味だった。

東京からたった1時間の距離にも拘らず美しく大きな自然に囲まれて暮らす有り難さ。東京での社交も可能な場。もっともっと多くの人が実行に移せばいいのにと、つくづく思う。もう既にそういう素晴らしい場所で暮らしている、暮らす事ができている、このことに心から感謝である。

招待側、W家での様子(^^).。
「Kさん、私でよろしければ、”田舎情報”をお知らせできますので、今度は是非ご主人と一緒にいらしてください」
「Mさん、”目と脳の栄養”として、今後も御誌を拝読していきますのでよろしくお願いします」
「名刺交換をさせていただいたEさんを始め、W家でお会いした皆さん、楽しいひとときをありがとうございました。また外房にいらした際は是非我が家にも立ち寄ってください」

どれも美味しく。にっこり。私は特にピクルスを独り占めするぐらい食べ尽くしました。作って下さったM.Hさん、ありがとうございます。


中国茶の茶器セットをお持ちくださったYさん、ありがとうございました。茶葉の説明、作法を交えたお茶のもてなしまで、本当に楽しく美味しく満喫いたしました。


食べて飲んでお喋りに花が咲いて。


犬たちも幸せなひととき。


田園風景の中にタクシーの行列。もちろん流しのタクシーではなく、東京のゲストたちを駅に送るためですが、田舎では滅多に見かけることのない光景。