冬のビタミンC復活!LaughHappyWinking

いすみ市(当時は夷隅郡)に引っ越すきっかけを作ってくれた元大家さんには本当に感謝している。この地が「終の住処」になったことを考えると、感謝という言葉はかなり陳腐に感じられるのだが。

その元大家さんが持っている「キウイファーム」で恒例となった収穫祭に誘われた。2年ほど前、意表外な時期に発生した台風でキウイ棚がなぎ倒され、昨年の収穫祭は開催されずじまい。念願かなって今年は復活となった。

収穫祭ではボンファイヤー(たき火)も。テーブルにはチーズやパン、ワインなどが並べられている。こうしたおもてなしにも大感謝。

表面がまだ固いままのキウイを収穫し北側の冷所に置いておく。そこから食べる数だけ少しずつ家に持ち込む。リンゴと一緒においておく事で化学反応が生じてキウイが熟す。来年の2月いっぱいまでキウイは維持できる。時には3月半ばまで持つこともある。我が家の冬のビタミンCである。さっそく数個をリンゴの隣に鎮座させた。

初めて収穫に来たという人が、大量に収穫した私に、「たくさん取ったのはいいけど、向こう3週間は毎日キウイを食べることになるね、アハハ」と皮肉を込めて発言。むほほ、スーパーで販売されている熟したキウイしか知らない人の発言ざますねぇ。エヘン、ということで、この道?16年の私が熟させ方を伝授。その人は前言撤回。だけでなく、もっととっておこうと考え、ファームに再び直行したかも(笑)。


キウイファーム。家もファームも深い森の中にある。「自然度・森の中度」は我が家よりも格段に高い。


森の斜面を上り、木々の間をくぐっては抜け、くぐっては抜けると、

キウイファームが目前に広がる。


みかんもたーくさん。収穫作業をしつつ、のどの渇きをみかんで潤す。
作業中に食べた数はなんと6個!



レモンもたわわに実ってます。
冷蔵庫で保存すると、レモンも数ヶ月持つのです。せいぜい一週間ぐらいしか持たないスーパーのレモンってどういうこと??


本日の収穫。すごい量。欲の皮が突っ張っているかも(笑)。
ちょっと高めの場所は竹のツールで収穫。昔、柿をとる際にこういう道具を使いませんでしたっけ?

仄かな時刻-水彩画展-HappyHappy


水彩画家の友達、松岡潤氏が銀座で個展を開催中。
場所は
「銀座煉瓦画廊」。11月26日〜12月2日まで。

友達である以前に、私は彼女の絵のファン。暗いタッチの絵の中に”安堵”を持ってくる技法の秀逸さは他に類を見ないように思う。カナダの美大で学び、しばらくカナダで活動していた松岡氏。海外生活の長さが日本へのノスタルジアをかき立てるのか、或いは日本渇望を癒したいのか、”日本らしさ”を描く時、彼女の絵にはとことん古き良き日本が、むくむく沸き上がるマグマのように現れてくる。

今回のテーマは「仄かな時刻」。洋の東西、それぞれに向けた松岡氏の郷愁観念。
是非、その世界に足を踏み入れてみて下さい。





下の写真は本のカバーに使用された作品。書店でもお目にかかれますね。

厨房からHappyWinking


デッキに出て雄大な自然を見るもよしだが、台所の窓から見える池の眺めも、これまた素晴らしく甲乙付け難いものがある。一般的な感覚からすればかなり深い奥行きの出窓、側面のタイル、チキンのウィッシュボーン、植物、これらが全て演出効果を持ち、その力を遺憾なく発揮する。これに窓枠が額縁となり「内外」の風景を分け、それが内外の違いを違和感なく目に届けてくれる。

窓の外では色々な表情が行き交う。シンクでの作業中に窓のすぐ外を鳥が横切ることも。美しく青い背を魅せて猛スピードで水面上を飛ぶカワセミの姿も。晴れの日だけでなく雨の日も美しい。しんしん降る雨も、水面に叩き付けるように降るどしゃぶりの雨もまた美である。曇っていても絵になる。まな板の上で野菜を、魚を、トントンやりながら、時々手を休めて額縁に見入る。ここに引っ越して本当によかった。何か一句ひねるべきか。

新築に入居!HappyWinkingLaugh

我が家の猫、マイケルことマイちゃん。推定20歳〜22歳の彼女は”老齢力”も高く、ほとんど一日中寝ているに近い暮らしぶり。家の壁に仕掛けた猫ドアで自由に外に出かけられるのに、お出かけは排泄行為のみに等しい感じ。しかもその排泄行為も家から2メートル以内で済ませるぐらいに行動範囲は狭いのです。”老齢力”により毛抜けも激しく、ベッドはいつも毛だらけで、掃除が間に合わないぐらい。ため息。

そこでマイちゃんのベッドを一新し、ドーム型に。帽子みたいで可愛いけど、購入理由は可愛いからだけではないのです。毛抜けがあまり醜く写らないようにという、飼い主側の理由もあり、です(汗)。

まずは真上から。電気アンカもセッティング。


猫って不思議。置いたらさっそくするすると入居。好きなんですねぇ、こういう感じ。


半身の構えでもパチリ。


しばらくすると、すやすや。



もう寝返りまでうって、すやすや。中の様子を見るためにちょっとフラッシュ撮影。

ヤケドしないように電気アンカはタオルで巻き、その上にクッションを乗せて、それを座布団カバーに入れてあります。暖まったベッド。マイちゃんぐっすりね。

図書館が欲しい! SadEmbarrassedAngry


私が図書館司書の資格を持っていることから、先日、某大学の社会人学生に単発で講義をする機会を持った。文献検索や調べものをする際の図書館とネットの使い方が講義内容である。タイトルは、『図書館とインターネットのすゝめ 〜卒論・レポート 自分にとって必要な参考文献の探し方〜』。

図書館司書資格取得は明治大学で、2年前のこと。既に錆び付いたような学習記憶を、これまた非活発化した脳に思い起こさせ、当時のノートやレジュメを引っぱりだし、首っ引きで復習に励む。レジュメはパワーポイント(Mac用はKeynoteなのだが)で作成。時間がかかるだろうと心配していたが、思ったよりも早く作成は進んだ。

講義当日。少々緊張した面持ちで向かう。予め大学の教室でパワーポイント用のスクリーンや機材使用は伝えてある。多数派を占めるWindows対応のケーブルが多く、映像をつなぐケーブルが合わなくて、大学の係の人を2度も呼んでしまうことに。すみませんと何度も頭を下げつつ、セッティングする私自身も汗だく。ふぅ。

講義時間になり、人がぞろぞろ入ってきた。予測した人数の2倍ほどの入りだった。大盛況! 用意したレジュメが足りなくなり、途中で係の人がコピーに出たほどだったと後で聞かされた。

終了後の感想としては、思ったほどの緊張はせずに講義を進めることができたということ。でも、伝え忘れたこともいくつかあった。パワーポイントを効果的に見せるためにカーテンを閉めて暗くした室内だったため、用意したメモが見えなかったのだ。かなり笑える。

私にはとても貴重で大切な経験だった。ふと、大学の教授たちを思った。人気のある講義、つまらなくて居眠りになる講義。私自身は昔学生の立場で居眠りする側ではあったが。でも居眠りされるのは悲しい。どの教授も生徒たちにしっかりと学んで欲しいという思いを込めて一生懸命にレジュメを作っていたことだろう。その結果が居眠りになるのは気の毒な気もする。もちろん教え方が面白いということも大切な要素ではあるが。

稚拙さが残る講義で恥じ入るばかりだったが、講義後、多くの人から感謝の意を頂戴した。また、何通か賛辞のメールも頂戴した。大学院まで出ているにもかかわらず、講義のような方法で参考文献を探すことは全く知らないままに卒業してしまったという人のメール。次にまた講義をする予定があれば、最前列で聴講したいという人のメール。心から嬉しい、と思えた瞬間だった。

あのぅ、全く「不満が」の「カテゴリ」ではないですよぉ、という声が聞こえそうだ。が、実はここからが本題(笑)。でも講義のことを記した前段は不要どころか、この本題に大切な役割を果たす。

私が住むいすみ市に図書館はない。町村合併前、夷隅郡であったときももちろん、なかった。市となって5年ぐらいになると思うが、この不景気風が吹く中ではあまり期待はできない。専門的な話になるが、図書館は指定管理者制度といって、自治体行政の運営ではなく、NPOなどの外部に委任が可能である。公営組織の民営化が可能だということだが、そうはいっても、図書館設置は多少行政が絡まないと進まないこともある。従って、行政の長(首長)のさじ加減一つ、とも言えるのだが、振り向いて我が市を見ると、どうもそれはお寒い状況なのではないかという危惧を抱く。というのも、図書館は直接的にお金を生むところではない。スーパーやホームセンターであれば、そこに雇用を生み出し、売買により市内の内需が拡大するのだが。図書館は図書館スタッフという雇用を生み出すが、「書店」ではない。

そもそも、元々図書館がなかったところに図書館を作る際、市民の賛同を得るのは難しい。図書館の必要性を説く際のセリフは、「図書館は色々と調べものをするだけでなく、その空間でゆっくりと書物と触れ合うこと自体に意味・意義がある」、これだけだ。”これだけ”などとネガティブな言い回しにした理由は、それ以上に言いようはないからだ。カギカッコでくくった図書館の必要性にうんうんと頷く人、何それ?となる人、両者間には大きな溝がある。後者に多いのは、調べたければ今の時代はネットがあると言う人。また、書物と触れ合いたい人は学生が多いだろうから、大学の図書館に行けばいいと言う人。

図書館のある暮らしは、文明化された、文化的な市民の暮らしに欠かせない要素をたくさん持っているのだと伝えなければならない。図書館がそれ自体を発信しなければならないが、既存の図書館の大半はその役割を怠っていると大学で学んだ。優秀な図書館は市民に必要と思われることを率先して行っている。高齢化社会に向けての様々な書を一箇所に集め、行く末を案じる高齢者や高齢者を抱える家族に安心を与える企画。旬なテーマを掲げ、関連図書と市民講座を行う。このように、市民に必要と思われることを図書館が先回りして企画し、市民の啓蒙活動に一役買う。こうしたことこそ行わなければならないのである。

エプロンをつけた係が貸し出し作業に応じるだけ。これが図書館のイメージであろう。これを払拭することが図書館の努めなのだが、司書資格を持つ専任職員を配置している公共図書館は全国平均でたったの49%(2004年度調査)である。最大の図書館数を誇る東京だが、有資格者率は34.6%で全国平均よりも低い。最高位は滋賀県で80.5%。6割7割台には、鳥取、島根、岡山、富山などが名を連ねるが、どこも大都市を抱える県とは言えず、図書館先進県が大都市圏ではない事実が露呈する。一人当たりの貸し出し冊数が最多と言われる公共図書館は富山県の舟橋村立図書館である。2900人の小さな村だが、子供の読書活動優秀実践図書館として文部科学大臣表彰を受けた。ちなみに富山県は町村の最小自治体も含め、公共図書館設置率が100%。全国平均は60%程度にとどまる。

学校図書館との連携をしながら、子供の頃から公共図書館を利用する事は大切なことである。世の中は活字に囲まれており、人の発言も活字になり、書物になっていく。それが必要なカテゴリに分けて分類され、一つの建物に入っている、それが図書館である。図書館は知識の宝庫である。ネットだけではわからないことはたくさんある。図書館で知りたい事を体系的に調べてみる、散策してみる、そうした探究心を養うことによって、子供の頃から物事を理論的に考える術を身につけることができる。親たちはそうした教育をふだんから行うべきではないだろうか。

また、図書館は理論だけではなく、情操面、美学面でも子供のためになる場所だ。そこに行けば古い日本にも出会える。その地域の歴史、文化に出会える。地域の百科事典であり、タイムカプセルでもあるのだ。

このように捉えることができれば、「勉強、勉強」とせっつかれる学校と図書館は違うのだということに気づいてもらえるはずだ。押しつけの学校(そうせざるを得ないのだが)とは違い、図書館は自分の興味を探っていく場である。子供の脳は限りない可能性に満ちている。その能力をもっともっと伸ばしてあげることは大人の義務ではないだろうか。もちろんそうした技術が養われれば、学校における「調べ学習」に役立つ事は間違いない。だが、先に勉強ありき、ではなく、興味に向けた探求心を伸ばす事だ。複合的に、理論的に調べることで子供の心には必ず何かが宿って行く。それが将来の、彼や彼女の生き方、職業の方向性を決めることにもつながるはずだ。

一方、大人にとっても図書館は重要である。図書館に通う習慣を身につける事は、文化的市民として教養を身につける事でもある。私が住むこの地域は農村地帯だが、そこにただ農業があり、ただ漁業があるというだけではなく、農業や漁業を引き継いで行くための知恵や知識を図書館から学ぶ事も可能だ。どんな職業であっても「調べもの」は大切な要素なはずだ。図書館は都会の施設、ではない。市民に開かれた地域の人々のサロンともいえる。

そして、引退後に田舎に移住した人たちにとっても生涯教育の場として大いに役立つ。若い頃に興味があったことをひたすら調べてみるのもよい。夫は引退したら天文学の書物を読みあさりたいと言っている。富山にいる私の父は毎日図書館に足を運び、仏教本を読むのが日課となっている。一日たりとも欠かさないのだと母が言っていたが、その話を聞いてから少なくとも5年は経っている。本を読んで心撃たれた言葉があれば、それを何枚も筆記し、私や親戚に送ってくる。少々傍迷惑なのだが、年老いても読み書きをすることは素晴らしいことであり、我慢することに(笑)。それに父はなかなかの達筆である事実を改めて知り、悪い気はしない。

いすみ市に図書館ができることを願いながら、この日の長〜いブログを終えることに。

幸福な結婚、不幸な結婚LaughFoot in Mouth

友人同士が結婚することになった。二人とも「アラフォー」。とてもお似合いのカップルだと思っている。以前から”怪しい”と睨んでいた二人でもあったし、両者を知っている私としては、性格的にも合うのではと感じていた。何度か「どうなの?」的な質問をしたこともあった。その都度何気なく否定していたのを覚えている。でもしっかりと愛を育んでいたのね、と思うと、心が温かくなってくる。幸せになって欲しいと心から思う。

上述の二人も含め、私の周囲には結婚願望の強い人たちが少なからずいる。以前、そうした内の一人、Kが、私に会うまでは結婚を否定的に捉えていたと告白した。Kの周囲には楽しい結婚生活を送っている例がないのだそうだ。結婚なんて絶対にしない方がいいとか、結婚は苦労ばかりだから独身に限るなど、否定的な発言に包まれたKにとって、結婚を肯定する発言に終始する私はかなり鮮烈な印象を与えたようだ。

しかし、周囲が否定派ばかりだから自分も否定というのは理由として説得力はないし、またいい大人なのだから誰かと交際する事があれば自分の中に自分自身の結婚観が芽生えるはず、そんな他力本願な調子で結婚を考えるのはヘン、というふうに切り返した私。ところがKは、誰一人として結婚の良さを言わないような環境にいることを想像して欲しいと言う。そんな中にいれば結婚に希望を抱けなくなると。それでもKの発言を100%理解することはできない私だったが、確かに良い例が全くないというのも辛い状況かもしれない。特に20代前半の若い時であれば、結婚ということに限らず、生き方の手本も欲しいところ。手本がないままに30代、40代と続くのもしんどい。

私の周囲に居る既婚者たち、離婚者たちを見渡してみても、確かに「良い例」はそれほど多くない。離婚経験のある人が、結婚なんてするものじゃあないと断言する場面に出くわしたこともある。辛い結婚生活だったのだろうけれど、フツーに結婚生活を送っている人に対して「そのうち絶対に苦労するわよ」的な発言はやめてもらいたい。また、嫁姑問題や夫婦問題で悩んでいる既婚者が、これまたフツーに結婚生活を送っている人に対し「あなたにはわからないのよ」的な発言をするのもやめていただきたいと思ったことがある。確かに経験しない限り”わからない”かもしれないけど、想像力を働かせ、感情移入し、その辛苦に対する同情心ぐらいは持ち合わせているつもりだ。だが、斜に構えた否定派は、フツーに楽しく結婚生活を送る人を目の敵にでもしているが如しの剣幕なのである。Kは、こうした類に囲まれていた、ということなのだろうか?

「結婚」は人生においてビッグイベントである。結婚、離婚、再婚、再々婚、再離婚?? 誰もが結婚するときは離婚なんて考えない。その人と一生添い遂げる、という決意の元に行っているのが結婚なのだから。従って一般的には離婚は不幸な出来事に分類される。でも、離婚した方がお互い幸せになれるという判断なのだろうし、最終的には不幸な訳ではない。それに、結婚を貫いているからエラいというわけではない。不幸な結婚を延々と続けている人もいる。別れられない理由は、子供であったり、オンナ独りで生きて行くための金銭的事情であったり。

考えてみると、結婚観は十人十色である。だがそれよりも重要な事実は、結婚観はあくまでも相対的であり、数値にしてもかなり主観的産物であるということだ。つまり、幸不幸度を点数にしたとして、30点をつけたAさんと30点をつけたBさんが「同じ」だとは言えないということだ。30点同士の二人の「現況」を箇条書きにした際、時には暴力を振るわれているAさんと、かなり言いたい放題の発言をしている自称嫁姑問題に苦しむBさん、ということが露呈するかもしれない。

私は新婚ホヤホヤでもないし若くもないから、結婚の酸いも甘いもそれなりに知っているつもりであり、ハートの目をして「結婚はステキよ」などと言っているのではない。でも、男性をある程度吟味できる成熟?した年齢で結婚したこと、またその上で素晴らしい伴侶に恵まれたということから、諸手を挙げて「結婚は良い事」という意見に至っている、だけだ。私が個人的に晩婚を勧める理由がそこにあるが、若くして結婚し、その後も幸せな結婚を続けている人も知っている。また、離婚経験者で、結婚はこりごりとは言うものの、それを他人に押し付けることのない「良識ある」友達もいる。

結婚したいと思う人は、是非結婚してみてください。離婚を考えている人、どうぞ決行してください。ただその際は安易に離婚を考えず、友人知人を始めとして色々な人に相談することを忘れないようにしましょう。はからずも、定期購読している『婦人公論』の特集が「見極めたい、夫との別れ時」となっています。参考になさったらいいかもしれません。

成り行き上WinkingHappy

英字新聞を手にしていても、コーヒーショップでは英語で話しかけられることはまずない(と思う)。でも、ホテルでは違うようだ。

ホテルに宿泊し、朝食をとりにレストランへ行ったときの事。入り口に英字新聞が。オバマさんがにっこり笑っていて、思わず手に取ったのだが、それが運の尽き。レストランスタッフとは英語でやり取りする羽目に。

スタッフはたぶん私のことを日本以外のアジア人だと思ったのだろう。最近、ホテル宿泊者にかなり中国の人たちが増えている事実はある。日本語で答えてもよかったけれど、朝食をとる際にスタッフとの会話はせいぜい「コーヒー、紅茶、どちら?」ぐらいのもの。それにそのスタッフだけで済むし、まぁいいか、てな具合。

なので、食事後の出口レジカウンターでは日本語で「ごちそうさま」を言ったつもりだった。だが、美しい歯並びを見せながら百万ドルの笑顔を披露しているオバマさんがモノを言い、またまた英語で話しかけられてしまった。「ごちそうさま」が聞こえなかったのか、オバマさんの威力なのか? ここでも何故かついでだし、部屋に付けてもらうためにサインをし、サンキューと言えば済むのだし、まぁいいか、英語で、と。

ところがレジでは意外に長い会話をする羽目に。お茶目なスタッフなのかどうか、色々と語る。どっぷり日本人なのに日本語を話せないフリをしていることにだんだん罪意識がわいてくる。でも罪意識はどこかの時点で消え、そこを超越するとなんだか日本以外のアジア人になった気分(笑)。東南アジア系には見えづらいから、やっぱり中国か韓国かな、などと要らぬ事まで考える。

スタッフと私の「英語ごっこ」はおしまい。英字新聞ゲットの許可をもらい、謝意を示し、エレベーターへ。笑顔のオバマさんは話のネタとして家まで持ち帰る事に。

塗り作業のあり方HappyEmbarrassedFoot in Mouth


デッキの防腐剤塗り作業。右は3年ほど前。左が今年。数年でかなり色があせるものですね。


デッキは北側に設置。家の陰になるところはどうしても乾きが遅い。まだ白っぽく見えるところはこれから塗るという段階なのですが、塗り終わった今も完全に乾くまでには時間がかかりました。

夏の太陽光線は真上から降り注ぎ、北側が陰に隠れることはなく、あっという間に乾きます。また、本当は3度塗りの予定も2度塗りで今年は終わりに。これまた、ジリジリ灼熱太陽光線はあっという間に乾かしてしまいますが、秋は違います。晴天が続いていても気温の低い秋では夜露の乾きも遅い。

涼しいからといっても塗る時期は多少考えないといけませんね。塗る部位や場所(方角)によっても違うのでしょうけど。今後の塗り作業の教訓といたします。はい。


名誉の汚れです。

霧の中の散歩HappyLaugh


深い霧の朝。消えたらもったいない、この霧があるうちに犬の散歩をしよう。ということでさっそく出かけました。太陽も霧に霞み、真正面から写真が撮れる。まるで月のよう。

春は「霞・かすみ」、秋は「霧・きり」、でしたよね。



どこまで歩いても霧、霧、霧の中。


犬たちも霧の中。


池も霧の中。


我が家も霧の中。

「霧に抱かれて静かに眠る。星も見えない湖にひとり。ちぎれた愛のぉ・・・・・」
昔、むかーし、こんな歌がありましたよね。『霧の摩周湖』、布施明でしたっけ?
年齢とともに記憶力が低下しているのに、昔覚えた歌のセリフは忘れないものですね。
うんうん、と頷いたあなた、あなたも、、、ですか。

夜の波音は暖かいHappyLaughWinking


海沿いに家を建てた友達カップル。ウッドデッキからの眺めです。素晴らしいですよね。絶景!感動!Beautiful!

海の手前も全て彼らの敷地。ヤート(円形の建物)、野外風呂(プール?)、野外キッチン、畑、作業小屋などなど。この海辺の環境を楽しむ材料がふんだんに揃っています。いいですねぇ。

うちは池に面していて「水の音」にはあまり縁がありません。でも彼らの家は海の音色に包まれた環境。ディナーに招待された夜の帰り。暗がりに聞こえる波の音がなんとも心地よかった。明るい日中に聞く波の音とは違う感じ。あー、海沿いの家もいいなぁ〜〜、と羨ましくなるひととき。ロト6で大金を獲得できた暁には海沿いの家を建ててみたいです。ってことは叶わぬ夢なのでしょうが、夢を描くのはタダなので。はぁ、ため息。



左が家主のKさん、右は東京から遊びにきた私の友達。まるでリゾート!と東京の友達も感動してました。電話一本で突然お邪魔したにもかかわらず、快く家の披露をしてくれたKさんとMさん、本当にありがとうございました。

ここでは紹介しませんが、Kさんたちの家がまたステキなのです。全体はもちろん建築業者に。でも、二人が自分たちの手でやり遂げた箇所もかなりあります。外回りの石(タイル?)タイル貼りを見せてもらいましたが、何も聞かなければプロの業者が行ったと思ったことでしょう。他にもいろいろ。才能豊かなお二人。脱帽。


そして、手術後のエリザベスカラーが笑える、おっと失礼、痛々しいZippy もたくさんたくさん私たちをエンターテインしてくれて。本当にありがとう。早く良くなってまた遊んでね。

宝のような美しさHappyLaugh


早朝、5時過ぎの池の景色。朝もやが立ちこめ、幻想的な森が描かれる時。思わずシャッターを。写真よりもこの目が証拠ではあるけれど。心を通わせたい仲の良い人たちとシェアできたらこの上もない幸せ、と思える風景。

手前味噌ながら本当に自慢の眺め。毎日住んでいても飽きない。1時間、2時間、ただずっと見つめているのも苦にならない。そんな場所に家を構えられたことにただただ感謝するのみ。

この家に住んではや6年。見渡す限りの森、森、森、そして池。心がホッとするところ。カチコチに固まり、ハイテンションになった頭を、脳を柔軟にしてくれるところ。人に対し優しくあり、人を受け容れること、これにすんなりと「Yes」が飛び出してくるところ。自然は命令口調ではない。見るだけでそう思えるから不思議。

人間界に警鐘、学者から、そして地球からFoot in MouthAngryEmbarrassed

文化人類学者・思想家である、クロード・レヴィ=ストロース氏が10月30日に亡くなった。1908年11月生まれ。目前に迫った101歳の誕生日を迎えることはなかった。ユダヤ人系フランス人家庭に生まれた。御多分に漏れず、太平洋戦争時代はナチスによるユダヤ人迫害を避けてアメリカに亡命。

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」

これは氏の著書『悲しき熱帯』1955年の冒頭記述の中にある。私は同著を読んでおらず、人類学者としてのレヴィ=ストロース氏をあまり知らない。だが、この有名な言葉だけは私の心を捕らえていつまでも離さない。この言葉かを知った時、思わず同感!、という具合にうんうん頷いていた。この言葉の裏にある同氏の思いは定かではないが、確実に共通する思いはあると確信したからだ。

「共通する思い」とは、私が生物学で少々学んだ事である。人間がいかに傲慢であり、地球に対し厚顔無恥であるかを知らせてくれた恩師ともいえる。テキストはユニークで、46億年と言われる地球年齢を、1年12ヶ月のカレンダーに合わせ、地球の「生い立ち」なるものを綴った年表があった。常に心に留め、戒めとしているつもりであるそれを以下に示す。


単位(目安として):
1ヶ月=3.78億年  1日=1,260万年  1時間=52.5万年  1分=8,752年  1秒=146年

*元旦;46億年前:地球誕生。誕生時は灼熱の世界であり、温度が徐々に低下して海洋と陸地が生じた。
*3月初旬;38億年前:お雛様の頃。子孫を作る能力をもつ生物の誕生。最初の生物は細菌(原核生物)で、海の有機物をエサとして増殖。だが4月には海中の有機物の減少で生物に危機が訪れる。資源枯渇となれば、地球はまた生物のない星に戻る。
*5月;30億年前:ゴールデンウイークの頃。光合成をする生物が現れ危機を脱出。これにより地球に初めて酸素が登場。だが、まだ大気中に蓄積されたとはいえない。十分な蓄積となったのは7月も終わる頃。これで生物が自力で生きて行く道が開かれた。
*8月終〜10月;16億年前〜10億年前:夏休みから初秋。様々な生物が登場するが、現在の感覚で考える馴染みのある生物にはほど遠い。
*11月半ば;5.7億年前:現在のタコ、ウニ、貝類、ヒトデなどが出現。だが、陸には草も虫も存在しない。理由は強いエネルギーを持ちDNAを傷つけ、細胞を死に追いやる紫外線。水とは異なり、陸には紫外線を吸収する仕組みがなかった。解決を見たのは11月の終わり(4億2000万年前)。陸上の植物が登場すれば、それをエサとする草食動物、また肉食動物も可能にする。
*12月2日;3.7億年前:師走に入った頃。カエルなどの両生類、昆虫などが登場し、陸はとても賑やかになる。
*12月8日;3億年前:ジョン・レノンが彼のファンに射殺された日。高さ30m級の大木が森林を作り、それにより大気中の酸素濃度は今のレベルに達した。石炭の大半はこの大森林故にできたらしく、1週間ほど(8,820年)かかった。
*12月15日;2.1億年前:恐竜の登場。しかし、クリスマスが終わった翌日の12月26日(6500年前)に消滅。

*12月27日;(6000年前)〜30日:お正月の買い物やおせち料理作りに忙しい時。ここまで年の瀬になっても人間の祖先は姿を現さない。

*12月31日の午後12時30分;600万年前:チンパンジーと分かれたヒト登場。
*12月31日の午後4時30分;400万年前:祖先の猿人登場。
*12月31日の午後9時過ぎ;150万年前:原人登場。
*12月31日の午後11時54分;5万年前:除夜の鐘を聞く頃。現世人類登場。

*12月31日の午後11時59分頃;1万年前:農業スタート。狩猟採集から農耕民への切り替え。ここから人類の繁栄は著しい。

*12月31日の午後11時59分59秒5;約80年前:既に秒読み状態にあるこの時、人類は科学文明に突入。

100年にも満たない間に、我々人類は鉱物資源を枯渇寸前にまで至らしめた。だがこの言い回しは人間を中心にした感情表現である。枯渇で困るのは人間。鉱物資源が必要な人間が現状を危機的に捉えている表現だ。地球にしてみれば、地球上の物質の1つが減ったに過ぎない。また、「人間にとって悪しき状況」である、地球温暖化、熱帯雨林減少、オゾン層破壊、などが急激に進み、結果として人類滅亡に至ったとしても、これまた地球にしてみれば、細菌や貝類の一つが死滅したことと同様に、人間という一種が滅びたに過ぎない。滅亡原因が核戦争であっても同様だ。

しかし、人を介して聞こえてくるのは、”地球は人間なのだ”、的な同列の扱い。そして地球に主体性を持たせ、地球を一人称、主語にした言い回し。地球が悲鳴を上げている、地球環境のために二酸化炭素排出量削減、とか、地球環境のために太陽エネルギーを使いましょう、などなど。それらは全て「人間界のために」と言い換えるべきではないだろうか。

地球は常に受け身である。46億年も生きている地球の歩みは悠久の昔から変わらない。緩慢にも見えるその動きの中、数千年、数億年というとてつもなく大きな計り知れない単位で地球表面は変化をし続けているのである。酸素を例にとるならば、酸素は登場した時点での量は生物にとって十分ではなかった。その後地球表面で様々な動きが生じ、十分な酸素量になるまでには登場後10億年以上もの時間がかかっている。

遅々として見える地球の歩みは着実なのだ。地球が謙虚である証ではないだろうか。地球を一人称扱いするならば、こうした謙虚さで示して欲しい。地球と比較してみると、0.5秒前に産まれた新参者「現代人」の我々はなんと気ぜわしいことだろう。鉱物資源の利用価値が高いと知るや否や、掘り尽くし、使い尽くし、そして反省する。医学・科学技術面においても同様だ。ダイナマイトを開発し、殺戮に使い、その反省が「ノーベル賞」。戦後のシラミ退治に効果を発揮し魔法の粉と言われたDDTだが、その後発癌性が疑われ使用を中止。軽くて便利なプラスチック類が瞬く間に普及するが、ダイオキシン問題が発生し反省。

人間が科学的に合成して作った問題物質は、誕生から反省までがわずか数十年。しかもその問題物質は人間の死を大量に招き、人間の健康を代々に渡って阻害し、動植物や森林を滅亡に導いている。生物界で一番インテリジェントであるはずの人間は、常に付け焼き刃の研究開発しかしていない。目先の利益だけを追求する近視眼的発想だ。人間が億年単位、せめて千年単位で科学技術開発を考えることはあるのだろうか。いや、そんなことは可能なのだろうか、という疑問が先に立つ。

地球に主体性があり意思があり、憲法があったなら、先のような悪行三昧の我々人類は「極刑」だろう。だが、地球はあくまでも事態を静観するだけ。いや、刑の執行は既に始まっているとも。何せ、たっぷり時間をかけるのが地球流なのだから。

夥しい数の生物種が地球上に存在するが、異端なのは人間だけ、正統でないのは人間だけ、のように感じられる。今後も科学は発展し続けるだろう。我々の生活を「便利」にし、「より良く」してくれている事を否定はしない。だが、この非正統派の人間が地球上の生物分布を加速的に変えるパワーを持っていることは事実だ。人間はそれをしっかりと認識すべきである。流行の言葉で言うならば、サステナビリティ(sustainability)、持続可能性。目先の利益追いを止めたなら、この持続可能の「時間範囲」をできるだけ長いスパンで考えられるようになるはずだ。地球寿命に関する天文学上の学説は別として、今後何十億年と続くかもしれない地球上の人間の営みを人間自身が想像力をもって考える努力をすれば、もっともっと地球に対し謙虚な気持ちになれるのではないだろうか。

オマージュなど身の程知らずであることは重々承知の上で、レヴィ=ストロース氏へ贈る。
「人間が死滅しても地球が涙することはない、地球は残りの生物とともに淡々と歩み続けるだけだ」

水曜ディナーWinkingLaugh


吹きガラス制作に出かける水曜日。ディナーはいつもカルパッチョ。季節を問わず。美味しいのにかなり手抜き料理です(笑)。

ガラススタジオのある東金市。帰りに必ず寄る2店舗。美味しいフランスパンの店。美味しい鮮魚を扱うスーパー。かなり得点の高いこの2店の2点。それを活かしたディナーは、やはり自動的にカルパッチョ。レッド、グリーンのペッパーを散らすと香り豊かに。淡白な白身には、赤ワインビネガー使用の自家製ドレッシングでコクを加えます。白よりも合う気が。サンマやイワシ、アジにも、赤ですね。脂ののったブリのような白身は赤でも白でも。

美味しいバゲットにエキストラ・バージン・オリーブオイルを添えて。あとはシンプルなグリーンサラダ、そしてもちろんワイン。にっこり。そういえば、バゲット1本食べきりが多いのも水曜日。

欲しくないけど、アートHappy

周囲を見渡しても民家がなく、他の木々とともに雑木林の中にポツンと1本植わっている柿の木はとても絵になる。民家の敷地内で庭木の一員として整然と植わる柿の木よりも美しい気がする。


実のほとんどは地面に落下。数えるほどしかない実と枯れ木のような様。これもまた絵になる。


「レーマンさん、こんなに広いんだし、柿の木たくさん植えればいいっぺ」。不動産を始め地元の農家の人たちがこぞって勧めた柿の木。土地を購入した時にいただいたアドバイスである。果物として柿は嫌いではない。でも、なくても過ごせる果物の一つであることに間違いはない。結果は植えなかった。でも1本ぐらいあってもいいのかなぁと思い始めてもいる。

フランスに家を買った友達。その地域ではリンゴの木が同様に、誰に属するでもなくポツンと存在している、らしい。


柿の木は不要。でもリンゴはあったら嬉しい。ということでリンゴの木を選んだ。植えて2年経過。まだまだ幼木。