ふぉと逍遥スライドショー更新WinkingWinkingLaugh


「ふぉと逍遥」スライドショーを更新しました。このところかなりレギュラー化している「フランスからの写真便り」も入っています。先方もフランスの田舎であり、どちらがフランスでどちらが日本なのかわからないものも出てきます。我が家をよくご存知の方ならすぐに気付くところでしょうが、どこだろう、と考えずにただ写真を楽しんでいただきたいとも思います。フランスの友は「採用」される写真を楽しみにしているようです。

また、昨日、友人が棟上げ式を行いました。東京から千葉への引っ越し組仲間になる友人カップルです。昨日は快晴の空。上棟式には最高のお天気。友人たちは古式ゆかしくとでもいいますか、餅投げやおひねり?投げも行いました。相撲の土俵と同じく、こちらも女人禁制。神道儀式だからでしょうか。

木のフレーム枠の最上段には「男子」たちがのぼり、そこからお餅やお菓子などを下に向けて投げます。近隣の人たちに予め声をかけてあり、多くの人たちが集まりました。皆、まるで童心に返ったかのように、無邪気に、でも真剣な顔つきでそれらをキャッチしたり拾ったりしていました。見ているだけでも楽しく、こういう伝統に則った上棟式はとてもいいなぁ、と思います。今後も廃れないでいて欲しいことのひとつです。この様子もスライドショーの後半に載せました。是非、お楽しみください。

10月ももう半ば近くになり、台風の今後も気になるところ。でも今年はもう矛先を納めて下さったのかなと、祈りにも似た気持ちで天を仰ぐ日々です。

能動よりも、まず受動の図書館HappyHappyLaugh


先日に続き、今日も図書館ネタ。連チャンに相応しい題材が目の前に飛び込んできたことが理由だ。それはクロスカップリング反応でのノーベル化学賞受賞というニュース。受賞者の一人は鈴木章さん。大学入学時点では数学を専攻するつもりだった鈴木氏。その彼が有機合成に興味を持ったのは「本との出会い」。転機を作ったのは「大学図書館」だった。

伝えたいのはノーベル賞級の本との出会いではない。学術的な文献を多く網羅する大学図書館と小規模自治体の公共図書館を比較しているのではないのだから。言いたいことは「個々人にとって大切な本との出会い」が必要だということ。それを提供するのが図書館だということだ。

そうした本との出会いに大きく寄与するのが「ブラウズ」することである。ブラウズ browse, browser ブラウザは、インターネット用語のカタカナ言葉して知られているが、ネットの専売特許言葉ではない。『リーダーズ英和辞典』によるとブラウズは、本の拾い読み、めぼしい本はないだろうかと見て回る行為を指す、とある。

ネットはどちらかというと、最初からわかっている目的物、想定されたモノを探す方法だ。一方、図書館でのブラウジングは自分の興味を超え、時に興味とは関係なく、分野も問わずに書架と書架の間をそぞろ歩きしながら、本との出会いを待つというもの。時には背表紙だけを読んだり、手に取ってちょっと目次をめくってみたり、また時には机まで持って行き読みふけるもありだ。図書館ブラウジングが素晴らしいのは、それによって意外な本の存在に気づいたり、これまで全く知らなかった分野の本との出会いを可能にするからだ。時には新しい出会いがその後の人生を決定づけることもある。先の鈴木氏のケースと言えよう。また既知の事であっても、何度か読み返す間に”新発見”をすることもある。

大切な本との出会いを可能にするのはネットではなく図書館
真に「大切な本との出会い」を求めるなら、実際はインターネットよりも図書館でのブラウジングに軍配が上がる。だからこそ「個々人にとって大切な本との出会い」には、図書館のように「受動的」なカタチでの本の提供が望ましい。頭の中で想定できない分野の本をインターネットで検索することは出来ない。頭に浮かぶキーワードがなければ検索は不可能なのだから。だが、図書館ならその「浮かばないキーワード」へも道しるべが用意されていると言える。未知の世界への扉である。本を探検する旅だ。

子供のための図書館
「大切な本との出会い」は将来を担う子供達に必要不可欠なことである。年齢に応じて「出会う本」は変化していく。興味の面、難易度の面、これら全てを網羅する図書館でたくさんの本と出会って欲しいと思う。出会った本を読み、咀嚼し、それによって考える力を身につけ、年齢とともに批判的な理論の展開ができるように頭脳を鍛えて行く。様々な本との出会いは、「優れた判断力」をもつ子供たちを必ずや育ててくれるはずだ。いずれ「地域の力」となる子供達のために図書館は大きな力となる。

大人のための図書館
そして、未来を担う子供達と同等に、大人のためにも図書館は存在すべきである。「大切な本との出会い」に年齢制限はない。また、図書館は様々な活用方法に満ちている場だ。家族に邪魔をされず独りで読書をしたり、静かな図書館で仕事を片付けたいということもあるだろう。ただ単に本の匂いに触れたくなって出かけるもよしだ。忙しい平日の代わりに新聞一週間分を週末にまとめて読むもありだ。新聞を買わなくて済む(笑)。

人助けの図書館
また、図書館によって「人が救われる」こともある。その例を挙げる。暴力団抗争による発砲事件の巻き添えで若い女性が亡くなった。被害者の母親は弁護士に相談。だが弁護士は暴力団を恐れて逃げ出す。当てにならない法律家に怒った母親は、それから毎日図書館に通い詰めて法律書を片っ端から読み始める。ハシゴをよじ登り、高い棚から分厚い法律書を引っ張り出す彼女の行為を危なっかしく見ていた若者が6人いた。彼らは司法試験勉強のために図書館に通う学生たち。そこから交流が始まり、彼女のために学生たちは条文を解説してくれた。”普通の主婦”だった彼女は多くの知識を得た。そして、「組長の使用者責任を追求する損害賠償訴訟」を起こした。撃った組員の不法行為をその当人ではなく組織の長である組長の責任とする訴えだ。彼女の弁護団も舌を巻くようなこの前代未聞の訴訟は、彼女が図書館に通って”独学”で考え出した手である。「組織、組織が」と口々に言う被告側のセリフからヒントを得たという彼女のアイディアは特筆に値する。彼女は和解金4千万円を手にし、それを元に基金を創設し被害者の会を作った。

もうひとつ、こんな話もある。公園の箱ブランコと地面の間に足を挟まれて女児が骨折した。事故の原因を箱ブランコの構造上の欠陥であるとして、それを管理する市と製造メーカーを訴えた損害賠償訴訟。「遊び方が悪い」と子供に責任を押し付けるメーカーと市に対し、「誰かがちゃんと言わないと事故は起きる。お母さん、私が提訴するよ」という女児の決意に立ち上がった母親は、全国で起きた箱ブランコ事故の実態を調べるため、国会図書館に通い、新聞記事を拾って当事者に事実確認をして事故のデータを積み上げて行った。結果、箱ブランコ事故での子供の死者は1960年以降22人もいることが判明。このデータが元になり、勝訴した。これをきっかけに自治体によっては箱ブランコの使用を禁止したところも出た。

図書館の役割は「資料(本その他の活字情報)を提供し、一人一人にとって大切な本や情報と出会うきっかけを作る場所」。これには、ブラウジングという行為を可能にする「図書館という場所」が必要になる。それが有るか無いか、これが全てを左右する。

図書館ネタをブログの題材にするとついつい”熱く”なる私。でも、図書館ネタで一緒に盛り上がれる仲間もいる。仲間も図書館設置切望者。その人も時には周囲の雑音から解放されて独りで読書をしたり仕事をしたい時があると言う。全くもって納得である。本来的には図書館は市民のためのインフラだと思うのだが、水道や電気がないと困る人はいても、図書館はそうではない、らしい。ここが図書館のない自治体に設置を訴える際、説得が難しいところとなる。上述した実話はレアケースだと一蹴されるだろうし、子供にも大人にも必要な理由をどう説いても、この不景気の時代である。今後の地域経済や高齢化社会など、目先の問題解決に必死だ。不振の地域経済や高齢化社会だからこそ、老若男女に関係なく、職種に関係なく、地域の人たちが全員、その課題に対して立ち向かうための知恵を養う図書館を設置するという気運には至らない、らしい。

しかし、そうなると、同じ小規模自治体であっても、元々図書館のある自治体とない自治体、この差は何に由来するのだろう。これが最終的に行き着く私の疑問点である。「お国自慢」になる失礼を承知で申し上げる。5日の写真と同様に下記の写真も実家の町にある図書館。町村合併後にこの市立図書館が新設された。町村合併前も、各町や各村には、図書室ではなく「図書館」があり、合併後は実家のある町に中央図書館が建てられた。旧町や旧村にももちろん「図書館」がそのまま残っていて、旧町村の人たちが活用している。

ひとつの市に4つも5つも図書館がある暮らし。一方、いすみ市は町村合併前から図書館はなく、市となって数年を経る今も図書館はない。「図書室」の本を増やすという首長のコメントを読んだ時の落胆。また、市からの業務委託で本の貸し出しを行うNPOが存在するという先の図書館仲間からの情報があったが、図書館の役割とは違う。何故、図書館という場所が必要なのかは「ブラウジング」で理解してもらえたと思う。そうなると、ふーむ、小さな自治体における図書館の有無とは、議会か首長か、それとも市民、どこに問題があるのか。実家の自治体に図書館があったのもただ単に「時の運」だけのことなのか。



この図書館の広い通路は車椅子でもすれ違えるほど。幼児向けに作られた低い机や椅子のコーナーもあり、お母さんたちが読み聞かせをしていた。70代、80代と思われる人たちが椅子に腰掛けて本を読み、新聞を読んでいる姿もあった。椅子に腰掛けてうとうとしている人もいた。老若男女に関係なく、業種に関係なく、仕事に就いているかどうかも関係ない。ふと出かけたくなったら行ってみる。読むという知的好奇心が目的のこともあれば、ただただブラウジングだけにとどまるかもしれない。でもその空間にいたいから出かける。これが市民のための図書館である。

クローンと宝くじHappyWinkingLaugh


実家の町にある図書館。日曜日。写真の左側は調べもの学習をしている小学生。右側は多目的学習室で静かに学ぶ大人たち。

10月に入った。暦の上での秋の始まりは猛暑に見舞われたせいか、このところの気温でようやく秋が感じられるようになった。

秋と言えば「読書の秋」。私の中では食欲の秋と同等に大切な「秋モノ」。食い意地が勝る事の方が多いことは紛れも無い事実ではあるが(笑)。

そうした秋の冒頭で、「ブックカフェ」の記事が新聞に掲載された。本が好きな人たちのために私語を禁止にしたカフェが相次いでオープンしているという。煎ったコーヒーの香りと本。ステキ!

その中の一店は、森のようなイメージの室内、わずかな音量のBGMで演出し読書環境をつくっているという。はて?、そうか、場所は都会だからだ。こうした取り組みは都会的といえば都会的。だけど、私なら森の中にそうした環境をつくってみたいと思う。擬似的な森ではなく本物の森。考えてみれば、私が住む場所はまさにそうした環境。

森の中のブックカフェ。なんだかやってみたくなるビジネスだ。BGMは生の森の音。木々のざわめきと鳥の声。しぶきを上げる水鳥、昆虫のささやき。哲学、天文学、文学、法学、歴史学、差し詰めこのあたりを揃えたい。そして、月に一度は読書会を行う。各分野ごとに、今月は哲学、来月は法学、というような格好だ。議論の題材を決め、それに関する書物を読む。読書会でその議題について論じ合う。うん、すごくいい!

おっと待った。それには今住んでいる場所を提供しなくてはいけない。私生活を犠牲にしてまでやりたくはない。また、そんなお金もない。加えて、それに従事してしまうと、本業との折り合いがつかなくなる。吹きガラスもできなくなる。あ、ダメだ、無理だ。

しかもこれは明らかに「もしもシリーズ」のひとつ。もしも、宝くじで大金が当たったら、のどかな場所にそうしたカフェを建築。そして、且つ、私のクローンがいたら、ということ、かな。でも、クローン人間にはあまり賛成の立場ではないし。やっぱり、やーめた(笑)。

しかし考えてみると、この役目は図書館ならできる。いすみ市には図書館がない。私のブックカフェ構想は、いわば図書館の「企画モノ」と同じ。図書館は単に本を貸し出しすることろではない。書物という「活字の知識」を市民に得てもらうために存在する。時の話題を企画モノにするなら、題材はそこらじゅうに転がっている。たとえば、高齢化における介護制度のあり方。これをその地域に特化して批判的に考える議題にする。関連本を読んでもらい、図書館内の会議室でそれについて論じ合う。

あまり硬いだけでは面白みはない。硬軟取り混ぜるなら、その地域の歴史について語り合う読書会なども面白い。日本史の中におけるその地域の歴史、その県全体とその一地域との歴史的関係など。自分の住む場所の再発見だ。ちなみに、千葉県を南北に分けると、北部側に「下総」があり、南部側に「上総」がある。千葉市などの大都市を含む北部が経済的には「上」であり、南はまさに南北格差。だが、南に「上」がつく理由は、電車が発達する前は、船での物流が主であったため、南部の方に経済発展の利があった。

図書館の取り組みとはこういうことなのである。あーあ、やっぱり、ブックカフェをやりたいのではなく、なんだかんだ言っても、図書館が欲しい、これが本音だっただけかもしれない。

以前、図書館のことで書いたブログのリンクを以下に貼り、10月初日のブログの筆を置くことにする。
図書館が欲しい!
”図書室”ではないんです