”図書室”ではないんですSadFoot in MouthEmbarrassed

今年は「国民読書年」なのだそうだ。一昨日の朝日新聞の社説は「読書年 町の図書館を使いこなす」。内容を読むと、以前、このブログで訴えた「図書館が欲しい!」と同様の主旨が書いてあった。パワーも何もない一個人があがくよりも、このように大新聞が社説で図書館の必要性を説いてくれる方が何百倍も訴求力があるというもの。

社説には私が書かなかったことも載っている。それは、国際的に見ると日本の図書館数はかなり低水準であり、人口あたりの館数は先進7カ国で最下位。平均の半分にも満たないという調査もあるそうだ。かなりショック。

また、子供達のためにも、資料を使いこなす力を培う、子供と本の結びつきを太く強くすべきだと書いてあった。その通りだと思う。ネット検索ですぐに結果を出すのは、考える力、使いこなす力は養えない。本に書かれている文字は二次元の世界なれど、本が保持する古今の英知は3次元や四次元の世界。あの事とこの事、そしてこういう事、この複数の「事柄」が錯綜するが如しに入り組み、その中に求める「事実」が潜んでいるのである。物事を体系的に捉える訓練、この探究心こそ子供に必要なこと。子供だけではない。大人にも必要である。

だからこそ図書館には専門の職員が必要なのである。ただただ「本」があればよい、となると、せっかくの宝も持ち腐れとなる。蔵書数を増やす場合でも、どんな本を入荷するかではなく、まず予算ありきになる。複層的な次元の世界への道先案内人がいてこそ、大人にも子供にも、図書館の素晴らしさが理解してもらえるというもの。

新聞の社説に感動していた矢先、届いた『広報 いすみ 1月号』を読んでがっくり。市長の新年の挨拶文があり、今年度の方針のようなことが書かれており、教育施設の整備の箇所に「市民のための図書室の充実に努めます」とある。

図書室と図書館とは異なる。図書館法の中にある両者関係を簡潔に言うと、図書館は奉仕として、図書室と協力関係を行わなければならない、という立場なのである。国民の教育と文化の発展に寄与するため、本来的にはどの最小自治体にも図書館設置は”望ましい”のだと、文科省の教育基本法としては考えている。だが、先立つもの(地方財政)、地方の図書館意識(地方行政の視点)、この両者が揃ってこそ成立する図書館であり、それがかなわない場合はせめて図書室だけでも、という実情が見え隠れする。これが「図書室の実態」だろう。だから、図書室は”お茶をにごす”程度の蔵書にならざるを得ないし、読むために過ごす、という状況からはほど遠い「設備」しかないのである。

図書館の有無だけでその地域の善し悪しを判断することは許されないが、善し悪しの判断材料にはなる。図書館発展途上国との烙印を押された日本であっても、「市」と名がつく地域で図書館が無い自治体は、かなり少数派に属するということだけはここで伝えておこう。

Have no regrets, but..HappyFoot in Mouth

田舎移住組の元東京人は、私の周囲に多く存在する。私たち夫婦の暮らしぶりに影響され、今年移住を決めた友達夫婦もいる。

田舎移住決定前、決まって質問されるのは「後悔」について。周囲の中では田舎移住の最古株に充たる私たち夫婦。答えはいつもこれ、後悔は全くない、である。Have no regrets one minute だと伝える。

後悔はないが、残念、と感じることはある。とても小さなことではあるが、何故?という思いが私を取り巻く。

ブラウンマッシュルームもその一つ。

この10年位で、居住エリアに多くのスーパーマーケットが出店した。店の本拠地が「都市部」にあるからなのかどうか、オープン当時はブラウンマッシュルームも棚に並ぶ。ところがしばらくするとブラウンマッシュルームは棚から消え、ホワイトマッシュルームに切り替わる。ブラウンマッシュルームの方が断然香りもコクもホワイトマッシュルームに勝るのに。

とあるスーパーでは、オープン当時、ロメインレタスがおいてあったが、これもやはり消えた。イタリアントマトも同じ運命に。コリアンダーもまた同様に。

時折、気がついたように上述の食材を見かけることがあるが、「定番食材」として棚に並ぶ保証はない。

バーコード、データがモノを言うを時代である。売れないものは切り捨てられる。市場原理、マーケティングの原理原則と言われればそれまで。

言われるまでもなく、こうした食材は都会的、東京的、であることは理解している。その地域の食生活に合わせた食材が販売されるのは自明。

田舎移住に後悔は全くないけれど、残念という気持ちはこのこと。だがしかし、これもかなり、かなり小さなこと。取るに足らない要素である。

図書館が欲しい! SadEmbarrassedAngry


私が図書館司書の資格を持っていることから、先日、某大学の社会人学生に単発で講義をする機会を持った。文献検索や調べものをする際の図書館とネットの使い方が講義内容である。タイトルは、『図書館とインターネットのすゝめ 〜卒論・レポート 自分にとって必要な参考文献の探し方〜』。

図書館司書資格取得は明治大学で、2年前のこと。既に錆び付いたような学習記憶を、これまた非活発化した脳に思い起こさせ、当時のノートやレジュメを引っぱりだし、首っ引きで復習に励む。レジュメはパワーポイント(Mac用はKeynoteなのだが)で作成。時間がかかるだろうと心配していたが、思ったよりも早く作成は進んだ。

講義当日。少々緊張した面持ちで向かう。予め大学の教室でパワーポイント用のスクリーンや機材使用は伝えてある。多数派を占めるWindows対応のケーブルが多く、映像をつなぐケーブルが合わなくて、大学の係の人を2度も呼んでしまうことに。すみませんと何度も頭を下げつつ、セッティングする私自身も汗だく。ふぅ。

講義時間になり、人がぞろぞろ入ってきた。予測した人数の2倍ほどの入りだった。大盛況! 用意したレジュメが足りなくなり、途中で係の人がコピーに出たほどだったと後で聞かされた。

終了後の感想としては、思ったほどの緊張はせずに講義を進めることができたということ。でも、伝え忘れたこともいくつかあった。パワーポイントを効果的に見せるためにカーテンを閉めて暗くした室内だったため、用意したメモが見えなかったのだ。かなり笑える。

私にはとても貴重で大切な経験だった。ふと、大学の教授たちを思った。人気のある講義、つまらなくて居眠りになる講義。私自身は昔学生の立場で居眠りする側ではあったが。でも居眠りされるのは悲しい。どの教授も生徒たちにしっかりと学んで欲しいという思いを込めて一生懸命にレジュメを作っていたことだろう。その結果が居眠りになるのは気の毒な気もする。もちろん教え方が面白いということも大切な要素ではあるが。

稚拙さが残る講義で恥じ入るばかりだったが、講義後、多くの人から感謝の意を頂戴した。また、何通か賛辞のメールも頂戴した。大学院まで出ているにもかかわらず、講義のような方法で参考文献を探すことは全く知らないままに卒業してしまったという人のメール。次にまた講義をする予定があれば、最前列で聴講したいという人のメール。心から嬉しい、と思えた瞬間だった。

あのぅ、全く「不満が」の「カテゴリ」ではないですよぉ、という声が聞こえそうだ。が、実はここからが本題(笑)。でも講義のことを記した前段は不要どころか、この本題に大切な役割を果たす。

私が住むいすみ市に図書館はない。町村合併前、夷隅郡であったときももちろん、なかった。市となって5年ぐらいになると思うが、この不景気風が吹く中ではあまり期待はできない。専門的な話になるが、図書館は指定管理者制度といって、自治体行政の運営ではなく、NPOなどの外部に委任が可能である。公営組織の民営化が可能だということだが、そうはいっても、図書館設置は多少行政が絡まないと進まないこともある。従って、行政の長(首長)のさじ加減一つ、とも言えるのだが、振り向いて我が市を見ると、どうもそれはお寒い状況なのではないかという危惧を抱く。というのも、図書館は直接的にお金を生むところではない。スーパーやホームセンターであれば、そこに雇用を生み出し、売買により市内の内需が拡大するのだが。図書館は図書館スタッフという雇用を生み出すが、「書店」ではない。

そもそも、元々図書館がなかったところに図書館を作る際、市民の賛同を得るのは難しい。図書館の必要性を説く際のセリフは、「図書館は色々と調べものをするだけでなく、その空間でゆっくりと書物と触れ合うこと自体に意味・意義がある」、これだけだ。”これだけ”などとネガティブな言い回しにした理由は、それ以上に言いようはないからだ。カギカッコでくくった図書館の必要性にうんうんと頷く人、何それ?となる人、両者間には大きな溝がある。後者に多いのは、調べたければ今の時代はネットがあると言う人。また、書物と触れ合いたい人は学生が多いだろうから、大学の図書館に行けばいいと言う人。

図書館のある暮らしは、文明化された、文化的な市民の暮らしに欠かせない要素をたくさん持っているのだと伝えなければならない。図書館がそれ自体を発信しなければならないが、既存の図書館の大半はその役割を怠っていると大学で学んだ。優秀な図書館は市民に必要と思われることを率先して行っている。高齢化社会に向けての様々な書を一箇所に集め、行く末を案じる高齢者や高齢者を抱える家族に安心を与える企画。旬なテーマを掲げ、関連図書と市民講座を行う。このように、市民に必要と思われることを図書館が先回りして企画し、市民の啓蒙活動に一役買う。こうしたことこそ行わなければならないのである。

エプロンをつけた係が貸し出し作業に応じるだけ。これが図書館のイメージであろう。これを払拭することが図書館の努めなのだが、司書資格を持つ専任職員を配置している公共図書館は全国平均でたったの49%(2004年度調査)である。最大の図書館数を誇る東京だが、有資格者率は34.6%で全国平均よりも低い。最高位は滋賀県で80.5%。6割7割台には、鳥取、島根、岡山、富山などが名を連ねるが、どこも大都市を抱える県とは言えず、図書館先進県が大都市圏ではない事実が露呈する。一人当たりの貸し出し冊数が最多と言われる公共図書館は富山県の舟橋村立図書館である。2900人の小さな村だが、子供の読書活動優秀実践図書館として文部科学大臣表彰を受けた。ちなみに富山県は町村の最小自治体も含め、公共図書館設置率が100%。全国平均は60%程度にとどまる。

学校図書館との連携をしながら、子供の頃から公共図書館を利用する事は大切なことである。世の中は活字に囲まれており、人の発言も活字になり、書物になっていく。それが必要なカテゴリに分けて分類され、一つの建物に入っている、それが図書館である。図書館は知識の宝庫である。ネットだけではわからないことはたくさんある。図書館で知りたい事を体系的に調べてみる、散策してみる、そうした探究心を養うことによって、子供の頃から物事を理論的に考える術を身につけることができる。親たちはそうした教育をふだんから行うべきではないだろうか。

また、図書館は理論だけではなく、情操面、美学面でも子供のためになる場所だ。そこに行けば古い日本にも出会える。その地域の歴史、文化に出会える。地域の百科事典であり、タイムカプセルでもあるのだ。

このように捉えることができれば、「勉強、勉強」とせっつかれる学校と図書館は違うのだということに気づいてもらえるはずだ。押しつけの学校(そうせざるを得ないのだが)とは違い、図書館は自分の興味を探っていく場である。子供の脳は限りない可能性に満ちている。その能力をもっともっと伸ばしてあげることは大人の義務ではないだろうか。もちろんそうした技術が養われれば、学校における「調べ学習」に役立つ事は間違いない。だが、先に勉強ありき、ではなく、興味に向けた探求心を伸ばす事だ。複合的に、理論的に調べることで子供の心には必ず何かが宿って行く。それが将来の、彼や彼女の生き方、職業の方向性を決めることにもつながるはずだ。

一方、大人にとっても図書館は重要である。図書館に通う習慣を身につける事は、文化的市民として教養を身につける事でもある。私が住むこの地域は農村地帯だが、そこにただ農業があり、ただ漁業があるというだけではなく、農業や漁業を引き継いで行くための知恵や知識を図書館から学ぶ事も可能だ。どんな職業であっても「調べもの」は大切な要素なはずだ。図書館は都会の施設、ではない。市民に開かれた地域の人々のサロンともいえる。

そして、引退後に田舎に移住した人たちにとっても生涯教育の場として大いに役立つ。若い頃に興味があったことをひたすら調べてみるのもよい。夫は引退したら天文学の書物を読みあさりたいと言っている。富山にいる私の父は毎日図書館に足を運び、仏教本を読むのが日課となっている。一日たりとも欠かさないのだと母が言っていたが、その話を聞いてから少なくとも5年は経っている。本を読んで心撃たれた言葉があれば、それを何枚も筆記し、私や親戚に送ってくる。少々傍迷惑なのだが、年老いても読み書きをすることは素晴らしいことであり、我慢することに(笑)。それに父はなかなかの達筆である事実を改めて知り、悪い気はしない。

いすみ市に図書館ができることを願いながら、この日の長〜いブログを終えることに。

13cm × 15cm 枠の庶民の味方Happy

朝日新聞朝刊2面の「ひと」欄。毎日楽しみにしている記事。タイトルのサイズは紙面上の大きさ。

記事には顔写真が載る。直木賞等の文学、プロ野球、音楽芸術などなど、多方面で活躍する人を選び掲載する。載る人たちは有名人とは限らない。人への無償奉仕など、草の根的活動をしている無名の人たちにも焦点を当てている。この欄が好きな理由はここにある。勇気と元気、やる気、をいただく。ポジティブな気持ちになり、心が清々しくなるからだ。

昨日の「ひと」にも心を打たれた。視覚障害者のために、絵を点字にするパソコンソフトを開発した藤野稔寛(ふじのとしひろ)さんがその人。盲学校に就任した同氏は、超がつくほどのアナログ派だったそうだ。数学の授業で図形入りの問題用紙を作れないもどかしさが彼を変えた。全国の点訳ボランティアからは「かゆいところに手が届く」と、感謝のメールが多く寄せられ、全盲の母親からは「子供がどんな絵を見ているのか初めてわかりました。子供に絵本を読んであげることが楽しくなりました」というメールが。9月には、第17回ヘレンケラー・サリバン賞を受賞。相応しい賞です。

1年365日。365人の「ひと」を探し続けることは楽な作業ではない。業界紙勤務の経験からもわかる。わかるけれど、時々、え、なんでこの人がと感じる事も。数日前の「ひと」。申し訳ないが木村万子(きむらまさこ)さんもその一人。

タイトルは『「ことのは語り」は母親の子育てを応援する』。写真を見た感じで、女性起業家か何かかと推測したが、記事を読みキムタクの母親だとわかる。まずはパンピー(一般ピープルの略)好奇心で、「へえー、奇麗な人なのね、キムタクのママって」と。いいお母さんを演じようと頑張り過ぎてしまい、睡眠薬や安定剤が手放せなくなった時期があり、16年間もがき苦しみ、良妻賢母をやめる決意ができたのは52歳の時。現在59歳。12年前に脱サラした夫と開いたイタめし屋はもうすぐ閉店だとか。勝手に計算すると、36歳から52歳までが苦悩の日々。活躍するキムタクの10代半ばから30歳までに相当する。苦悩の日々ながら47歳でイタめし屋をスタート。

今や月の半分は講演活動。自治体やPTAから声がかかり、食・子育てをテーマとした講演に追われる日々。芸能界の第一線で活躍し続ける子供を持つ母親の苦悩は私にはわからない。だが、推測し感情移入できるところはある。常に大衆の視線が注がれ、一タレントの母親という枠を超えた”スーパー有名人”の母親である。「あのキムタクの母親」が肩書きのように一人歩きする生活は酷なものだろう。それが30代半ばというまだ若い母親の年齢で受け止める羽目に陥ったのだから。

しかしこうした記事は是非、一般雑誌あたり、『婦人公論』などのエッセイ欄で紹介していただきたい(予定されているかもしれないけれど)。「365人のひと」はもっともっと無名で良いと思う。無名で縁の下の力持ちはまだ他にもたくさんいるのではないだろうか。

マスコミの中で存続の危うさが一番と言われる「新聞」。大衆受け狙いはテレビやインターネットにはかなわない。新聞ならではの、新聞でしかできない紙面作りを心がけて欲しいと思う。