きちんと定期検診をHappyLaughWinking


16人に1人の罹患率と言われる乳癌。私の友人知人の間にも結構な数がいる。つい最近も、30代の友人が乳癌であるとわかった。

今では死に直結する病ではなくなりつつある乳癌。とはいえ、「癌」と言われれば誰もが最初はパニックになる。罹患した私の友人たちも皆そうだった。

ピンクリボン運動。言わずとも知れた、乳癌撲滅のため、きちんと定期検診をしましょうという運動のシンボルである。

私はこの運動が始まる前から実は乳癌検診を毎年受けている。きっかけは子宮筋腫。ある日、夫に伴って病院に行った際、ま、ついでだし、ということから婦人科へ。超音波検診で筋腫発覚。その後の触診で、「こーんな大きな筋腫がありますよ、ほぅらこれ。フ、フツーは貧血とかになるんですけど気がつきませんでしたか?」と医師が私の顔を不思議そうに覗き込む。筋腫は直系10センチにも及んだ。医師の手がぐぐっとお腹を掴み込み、筋腫はこれだと示すのだが、当の私は「三段腹の贅肉と筋腫の差がわかりません」と言って笑いを取ってしまう始末(笑)。自覚症状は無い私は血の気が多かったのか。

その後、子宮筋腫は手術で取り除いた。このことがきっかけとなり、そうだ、女性に生まれた以上、婦人科と乳腺科は予防の意味で定期的に受診すべきだと痛感したのである。

しこり、腕を上げたときのツレる感じなど、本来的には乳癌は自己診断が可能だ。だが、周囲の乳癌罹患者を見ると、必ずしも自己診断側ではない。私のように偶然の検診から見つかったというケースもある。また中には、恋人が見つけたというケースもあった(^^).。

そして、残念なことだが、乳癌に罹患した友人たちの多くに共通することが一つある。それは定期検診をしていなかったことだ。

自覚症状の無い病、自己診断が可能ながらも見過ごしがちな病は他にもある。そのために定期検診が存在する。不要な検診を闇雲に受けるのはどうかと思うが、受診すべきもある。ピンクリボンの乳癌に関しては、受けるべき検診であると確信する。乳癌は60代、70代になっても発症するものだと聞いている。あなた自身がツライ思いをしないように、また、その病によってあなたの家族が心痛に苛まれないようにするためにも、あなた自身の自覚が必要になる。

失敗を恐れず、失敗しても前向きにWinkingHappyLaugh



ここ何年も言われていることに、「子供たちが危ない」がある。いじめ、殺人など、”大人なみ”の凶悪事件は後を絶たない。世の中が悪い、いや親が悪い、学校が悪い、などなと批難の矛先はそれぞれの罪のなすり合いに転じる。

だが一方、特に教育ママ・パパに育てられたわけでもないのに、ごく普通に学校生活を終え、自分を見つめて将来像を描き、ごく普通の暮らしをする若者たちも多い。凶悪事件を起こす子供達よりもこちらの方がもっとずっと数は多いのだ。

また、中には幼少時からしっかりと自らの未来を見つめる子供もいる。16歳の最年少で公認会計士試験に合格した高校生もいる。新しい分野は苦手だと言い切る彼は、数字大好きっ子でコツコツ派を自認。最年少合格のための勉強時間を捻出するため、高校は通学ではなく通信制にしたぐらいの念の入れようだ。

はてさて、危ない子供達、という事実の側面なり奥底に広がっているのは、もしかしたら「危ない大人達」なのではないか。30代から60代ぐらいまでの”大人たち”と話す機会が多い私。その対話の中で感じるのは、危ないというより「もろい」と言った方がいいかもしれない。宅配便のワレモノに貼る「fragile」よろしく、「壊れ易い大人たち」が増えているような気がする。

「壊れ易い人」と「壊れにくい人」、両者の差は何か。敢えてビジネスの場面に当てはめるならば、「壊れ易い人=失敗を恐れる人」、「壊れにくい人=失敗を恐れない人」と言える。

心理学者バーナード・ワイナー (Bernard Weiner)が提唱する「達成動機付けの帰属理論」は、まさに上記の二者を表したようなセオリだ。

「成功をしようとする行動」と「失敗を避けようとする行動」、人は通常この反発する2つの行動を持つ。ワイナーは、成功と失敗の因果関係の要素を、「能力」「努力」「課題の難易度」「運」の4つで示した。

成功志向の強い人は明らかに前者で、失敗を恐れず、成功すれば自分の努力を褒め、失敗したとしても努力が足りなかったのだと即座に反省する。自分の能力にあった課題を選び、運に頼らず突き進む。

一方、失敗を回避しようとするタイプの後者は、成功してもそれを自分の努力というよりは運が良かったのだぐらいに止めて成功の分析をせず、失敗した場合は因果関係を自分の先天的な能力不足にもっていく。失敗後に自己責任が問われることを回避する傾向があるため、無難な課題を選ぶ。あるいは失敗しても言い訳が通るからということで超難易度の高い課題に挑戦することもある。

東京で時々カウンセリングのようなことを行っているが、「自分がよくわかっていない」というようなタイプの”大人たち”に出会うことが多くなった。自分の力量、つまり能力を見極めることもできない大人が、理想ばかりを述べ、転職を望む。望む職は自分の能力に見合ったものではなく、あるいはやってみたいからというよりも失敗を避けるための無難な選択なのだ。年齢を聞くと30代。時には20代も。なんともネガティブなモチベーションをこの若さにして持っている、ということに驚く。

かつてはその彼らも「普通の子供」だった。先の最年少公認会計士試験合格のような「神童」を目指す必要はない。でも、普通に、ごく普通に「大人への階段」をのぼる際、何かが、何かが崩れ、「普通の大人」には違いないけど、「ネガティブな普通の大人」になってしまったのだろうか。こういう大人たちが作る空気こそ子供達に悪影響であると感じる。

上手に歳をとることWinkingHappySad

夫の夢の一つは早く「じっちゃん(爺ちゃん)」になること(笑)。思い切り頑固なじっちゃんが夢だとか。微笑ましい頑固さならともかく、人の迷惑となるような頑固は止めに願います、と先制する私(笑)。

というのも、時々困った系の”お年寄り”に出くわす事もしばしばだからだ。スーパーのレジに並び、自分の買い物カゴをカウンターに置こうとしたその瞬間、商品をいくつか手に抱えた70歳位の女性が私の前に入り込み、「これだけなんですみません」と、先に会計を済ませようとした。身体をねじるようにして入って行きたその女性は割り込み以外の何者でもない。目も合わせようとしなかった。一瞬ムッとしたが、事を荒立てるよりは「どうぞ」と譲った。ま、それしかない雰囲気でもあったし。なんとも感じの悪い、イヤな気分で店を後にした。夫にはそーんな図々しいタイプになって欲しくないし、もちろんのこと自分自身も決してなりたくない手合いだ。反面教師にせざるを得ない。

そして先日、旧友Qから愚痴を聞かされた。愚痴の対象はX氏。私もQの紹介で何度か会ったことがある。X氏は60代。定年引退後の今も、フリーランスで会社員時代と同じ仕事をしている。会社員時代からそうであったようにX氏は今も顔が広く、人をまとめるのが好きで、いつも複数の人たちを連れて夜の東京を楽しむ。時折Qもそのメンバーに招かれる。

だが最近QはX氏からの呼び出しに戦々恐々とし始めた。会社員時代はそんなことはなかったのに、フリーランスになってからのX氏は少々目を塞ぎたくなる行動が目立つようになったという。なんとX氏は東京の行きつけのレストランで勝手に勘定を決めてしまうというのだ。X氏常連レストランは、フレンチやイタリアン、中華、和食、鮨店など多岐にわたる。例えばフレンチのメニューで定額のコース料理があったとしても、カッコ付きのメニューがあり、その素材を選ぶとプラス500円とか800円増し、ということがある。増額素材を選んだらプラス分を払うのは常識。だが、X氏は会計の際に”定額”で押し切るのだ。時にはメニュー選びの段からメンバーに向かって、「ここではどれだけ食べても『シェフお任せ額』でいけるから」と豪語し、会計時にメンバーから「OO円ポッキリ」を集金する。本当にこれでいいのかな、と訝しく思いながらも、他のメンバーと同様に「OO円ポッキリ」の幸運をしっかりと享受していたことも認めるQ。

ある夜、招集をかけられたQ。勘定時になり、X氏からレジでの立て替えを頼まれる。二次会のときに皆からお金を集めるからと言われ、皆より一足先にレジへ。Qの元にレストランのマネージャーが近づいてきて、多くのお客をX氏から紹介されてきたことに感謝はしているが、自分で食べたもの、飲んだもの、に見合う勘定を払うのが常識ではないかと諭された。全くもってその通りと応えるしかなかったQ。Qが悪いわけではないのに感情的な言い方をしてしまったことを反省し、Qに謝るマネージャーだが、彼も誰かに愚痴を言わずにはいられなかったのだろう。その夜以来、Qはほぼ毎回、レジの立て替えを頼まれるようになった。Qの推測では、レストラン側の”感情”にX氏も気づいているため、X氏自らがレジに行くのではなく、代理のQを盾として利用しているのだろうと。イヤな任務に就かされたQには心から同情する。

X氏のような手合いは必ずいる。多少の差はあるが私の知人の中にもいる。自分と一緒にいれば誰もが得をする、自分はこんなにも顔が利くのだ、自分はパワーがあるのだ、というようなことをX氏は周囲に知らしめたいのだ。定年後もフリーランスで同じ仕事ができる人なのであり、仕事面での力量は確かなものがあるのだろう。だが、徐々にビジネス面でも翳りが見え始めたのかもしれない。

そうした、「過去の栄光」を断ち切れない人ほど大見栄を張り、うわべばかりを気にして飾り立てようとする。上手に歳をとることができない人の一つの典型である。スーパーのレジでの出来事とQの経験。両者ともに上手く年を重ねているタイプとは言えない。こういう人たちは「常識の範囲」を知らないうちにどんどん広げていっているのだろう。これをやってもいいはず、これは自分なら当然許されるはず、などなどとやっているうちに、広がった常識の範囲が「非常識」の域に入っているのにも拘らず気がつかない、気づこうとしない、のだろう。

言うは易し行うは難し、であるが、肝に銘じよう。

”変化”は絶対に必要なのかWinkingHappyLaugh


我が家のデッキから見える眺め。訪れる誰もがこの自然の壮大さや荘厳さに圧倒され、言葉すら飲み込んでしまう景色。もう7年近くも毎日この景色と暮らしているが、全く飽きる事が無い。ここに住まわせてもらっていることに本当に感謝する毎日である。ゲストたちが決まって言うセリフも「毎日見ていても飽きないでしょう」である。

そして、次も何故か決まって、「自然は毎日変化していますから、毎日何か新しい発見がありますよね」とくる。これまでは私もついつい同調していた。”ついつい”と言うのだから、本当は否定すべきところだったのである。先のセリフへの応答に、「毎日新しい発見というのは不可能です。自然の変化は遅々としていることが特徴なんですから、四季の変化は別として、昨日と今日の違いなんて発見できるわけがありません」なーんて言ってしまうと会話はぶつ切りで、そこで終わりになるから決して言わない(笑)。「四季の変化は別として、毎日毎日という変化は鈍い感性の私には発見できませんが、逆に変化のない自然、ゆったりとしていて変わらない、そのことが素晴らしいと感じています」という主旨を伝えることにしている。

だが、何故人はあんなふうに言ってしまうのだろうと考えてみた。一つは詩的な意味合い。”自然は変化し、毎日新しい発見が”。耳に心地よく美しい文である。招かれた客が礼儀として発する完璧な賞賛言葉であり、会話として成立しやすい事実もある。「変化がなくていいですね」は確かにスムーズさに欠ける。

だがもう一つは詩的とは真逆の世界である。それは世の中全体の「変化」を肯定的に捉える風潮だ。米大統領オバマ氏が”チェンジ”を唱えるずっと前から、人間世界では変化が基本だった。変化を代弁する表現は枚挙にいとまが無い。以前と異なる、前とは違う、進展する、新しいことに挑戦、生活を良くする、大学に入る、就職する、婚活する、家族を作る、経済を良くする、ボランティア活動をする、サステナビリティのある社会にする、などなど。つまり人間界の営み全ては「変化」に結びついているのだ。何もせず、変化を求めようとしない人は否定的に見られる。こうした人間世界の活動が、人々の潜在意識に「変化」は「最良」ということを刷り込んでいるのではないだろうか。

デッキからの光景を見てのコメントも、口が開いた途端、自動的に潜在意識下にある「変化は最良」が起き上がってくるのではないか。毎日見ていても飽きないのは毎日変化しているからであり、毎日の変化がないことは飽きるという意味に繋がるため、人々は前者の主旨に見合う褒め言葉を言わなくてはならない。鈍いほどにゆったりとした動きで、悠久の歴史とともに歩んできた自然。重箱の隅をつつくようで申し訳ないが、昨日と今日の変化を語りたいのは新参者の人間ぐらいかもしれない。

「変化」を是とする風潮に抗うもう一つのこと。May no new thing arise. 日本語直訳だと、「新しいことが何も起きませんように」となる。海洋冒険小説家で歴史にも詳しいパトリック・オブライアンの小説によく出てくるセリフだ。ハリウッド映画の『マスター・アンド・コマンダー』にも出てくる。夫が先のセリフを我が家に来た若いゲストたちに投げかけたところ、奇妙な顔をされた。つまり引いてしまったのだ(笑)。若い人たちにしてみれば、毎日新しい変化が欲しく、新しいことに出会い、新しいことに挑戦して行きたい世代である。そこにいきなりアレなわけで、いぶかしく思うのは当たり前。どこかの「お爺ちゃん」が発する言葉という風にも感じられただろう(笑)。

オブライアンの小説によると、このセリフはスペインのカタロニア地方で使われたのだそうだ。スペイン語ではQue no haya novedad. 伝記作家、歴史にも詳しい彼のことだ。このセリフで家族を送り出したり、友人知人と別れ際にこのセリフを投げかけたりという事実に基づいた言葉だったのだろう。

変化こそ素晴らしいという時代。確かに変化は大切なことである。だが、変化を礼賛し過ぎるが故に、「変化無し」を「良し」とする表現が手薄になり、乏しくなってはいないだろうか。オブライアンのMay no new thing arise.は、「変化無しの良さ」を豊かな表現力で表しており、静かだが深い感動を心に刻み付ける力を持っている。或いは私も既に「お婆ちゃん」の域に入ったのかもしれないが。

しかし、巧い日本語訳が見つからない。英語を日本語訳にする際、日本語には豊かな表現方法が数多くあるのだが、現時点ではお手上げ状態だ。「昨日と同じ一日でありますように」をちらっと考えたが、いまいち雰囲気が伝えきれない感じがある。

他人の口にご用心WinkingSadLaugh


人の悪口や愚痴を言う時、人はしばしば「他人の口を借りる」ことがある。例えば花子さんの悪口なら、「よし子さんもそう言ってたよ」とか、「美知子さんも似たような経験したみたいよ」と。グチっている人物をZさんとすると、二人の”同意”を得たZさんは「やっぱりみんな花子さんのことを変だと思ってるんだ」と意気揚々。だが、「他人の口」から出た”同意”を額面通りに受け取るのはいささか勇み足とも。

社会心理学に親和動機(affiliation motive)による同調(conformity)という理論がある。簡単に言えば、よし子さんと美知子さんはZさんに好意(親和)を持っているので、花子さんの悪口に同意(同調)したという理論。「絶対に花子さんはおかしいわよ、Zさん」とか「まぁ花子さんは変かもしれないけどね・・」など、好意の度合いによって同意の度合いや表現は異なる。もちろんZさんのストーリーに信憑性は必要だし、同意(同調)する際の動機は好意(親和)だけとは限らない。だがこの理論に敢えて当てはめると、この4人の関係は、どの人がどの人とより親和的関係が強いかが大きなカギになるということを示している。仲良しの関係性、魅力度合いの順位も親和に関係する。このあたりの要素により、どう発言するかのさじ加減が決まる。

問題は、常にZさん的人格になるタイプ=「クレーマー」と、常に花子さん的人格になるタイプ=「非常識人」。悪口の強弱?はともかく、友達グループの中で統計的に常にクレーマーとして名が挙がる人がいたら、その人の方が問題かもしれない。同様に、非常識人として常に名が挙がる人がいたらこちらも問題である。だが、欠席裁判よろしく、自分自身がどの程度悪口の対象になっているかはわからないし、統計は取りづらい(笑)。また、愚痴を言う時、誰もが自分を正当化したいもの。聖人君子などいないのだし、「ねえ聞いてよぉ」は人間心理そのもの。逆に愚痴一つ言わないような人は面白みもない。愚痴ばかりというのも困るが。

ここからの教訓は、友達の間で自分自身が「クレーマー」や「非常識人」にならないように心がけることと言えるだろう。また、クレーマーではないだろうかと謙虚に自分を疑い始めたならば、「他人の口」に関し、事の本質を見抜く訓練をすべきだと思う。「私に好意を持ってくれているから”社交辞令”的に同意してくれてるのかもしれない。果たして私の愚痴は本来的に正当なものだろうか」というように。うーん、でも、常にクレーマーモードで戦闘態勢に入っているような人は、そもそも本質を見抜く素質に欠けているのかもしれないが
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自己反省も含め、皆さん、思い当たるふしはありますか?。

以前より優しく、という難問奇問WinkingHappyLaugh

「人に対し、以前よりも思いやりや優しさが持てるようになりました」。色々な人からこうした主旨の言葉を良く聞く。私自身も発する事がある。カッコ内を結果とすれば、その原因となったのは、自身のツライ経験、ツライ経験をしている人に寄り添ってあげた経験、この2種類が多かった。つまり、ツライことを通して優しくなれたということだ。確かにツライ経験は人を優しくしてしまう、そんなパワーがあるかもしれない。

だが、失礼ながら言わせてもらうと、「優しくなった」というはずの人があまり変わらない、というケースにも時々遭遇する。いや、実はこれは時々ではなく、自分も含め多くのケースに当てはまるように思える。

心理学に少々足を突っ込み、人の心と向き合う産業カウンセラーという資格も取得した。また、社会人としてそれなりに経験を積み、人とも多く接してきた。そういう50代の自分を少々高みの位置に置かせてもらって言うならば、「ひと」を見る目はそれなりに持っている(養われつつある)のではないかと感じている。その中で、あくまでも私の感覚の中ではあるが、「優しくなったはず」の人が「変わらない」という事態を垣間みる機会があるということだ。

心理学用語に、「オペラント条件付け」というのがある。簡単に言うと、オペレート、つまり働きかがあり、それによって得られる「喜び」のようなものがあることで、その喜びのために自発的な行動が繰り返される、というようなもの。もう一つ、「独立変数」と「従属変数」という用語もある。独立変数が「原因」、従属変数が「結果」だと考えれば早い。

先の「優しくなれた」人を無理矢理用語に当てはめてみる。ツライ経験は独立変数(原因)、優しくなれた自分は従属変数(結果)。ツライ経験に遭遇していた時の自分、ツライ経験をしている誰かに寄り添ってあげていた時の自分、これらがオペラントとなり、そこを経て培われた何かによって「人に優しくすること」を得、その行動を繰り返すようになる。

この研究にはかなりのインタビューを要するが、勝手な仮説を立てるなら、先の私の経験からは「ノー」であるというケースが「少なくない」と言わざるを得ない。

何故か。これもまた個人的見解ではあるが簡単に述べたい。まず、ツライ経験をした人に寄り添ったケースを考えてみよう。厳しい言い方をするならば、ツライ経験をしている人に「キツく」接する人はかなり極悪非道で、人でなし、ではないだろうか。傷ついている人が近くにいる場合、一般的には優しく手を差し伸べるものだろう。傷つき度合いにもよるし、その人への寄り添い度合いによっては、その後本当に優しくなった人もいることだろう。だが、この寄り添った経験が必ずしも「以前より優しく」ということを導くものではない気がする。

次に自分がツライ経験をした場合を考える。ツライ経験は確かに人を成長させる。だが、その成長は人への接し方にも表れるはず、という自信が湧くのではないだろうか。だが、何かに関して成長したことと、前よりも人に優しく接することができるという、この因果関係を保証するものは、意外に何も無い気がする。また、ツライ経験の多くは「人」が介在する。そしてそのツライ経験から脱却した時、自分にツライことを与えた人をもなんとなく許していたり、心理的に良い距離を置けるようにもなっている。だから、ツライ思いをさせられた「あんな人」でも許せたんだから、色々な人に優しくできないわけはない、と思ってしまう一面の心理はあるように思う。しかしこれは「喉元過ぎれば・・・」の世界かもしれない。次にツライ経験が襲ってきた時、また同様のすったもんだをやってしまう、これまた人間ではないだろうか。もちろん、以前の苦い体験を活かし、少しは上手に対処できるようになっているかもしれないが。

2つのケースを通じて感じるのは、人間は感傷的な動物であり、自己愛が強いこと、これらの要素が「以前よりも優しくなった」と確信させるのではないかということだ。これまた大きな仮説ではあるが、これらの要素が強い人(独立変数)ほど、ツライ経験の前後における「優しさ」変化がない(従属変数)、と感じる。

以前よりも優しくなった、ということはとても素晴らしい話である。ただ、それを誰か第三者が異口同音に語る事実があれば、その人は本当に「優しくなった」と言えるのではないだろうか。

悪気はない言葉HappyWinkingLaugh

人とは「悪気のない言葉」に傷つく動物であると思う。日常の中で接する友達や知人とのやり取りの中に、「悪気のない言葉」はたくさん散らばっている、のだろう。「Z子って、悪気はないのかもしれないけど、私は傷ついたのよね」などという会話はよく耳にするし、私自身も発することはある。

傷つき度合いはそれぞれながら、それが元で「絶交」や「絶縁」になる例もある。だが、大半はそこまで極端な結果とはならず、誰かにちょこっと愚痴を言うだけで気が済み、「悪気のない言葉」を発した人物とフツーにお付き合いを再開させるのである。だからこそ、「ふだんはすごく優しくていい人なんだけど」というセリフが、愚痴の言葉の前段として、まるで枕詞のように置かれる理由だろう。

また、傷つく、ということ自体も、その時の心理状態によってかなり異なる。私生活がいまいちうまくいっていない、彼氏との仲も足踏み状態、などなど、心があまり元気でない時には大きく傷つき、その逆で元気いっぱいの時には気にもならない、ということもある。また、性格の個人差も大きく起因する。「悪気のない言葉」と「傷つき度合い」の相関関係は複雑多岐にわたり、一筋縄では行かないのだ。

では、一方の「悪気のない言葉」を「発する」側はどうなのか。先の傷ついた人を被害者とするなら、発する側は加害者といえる。だが、被害者は常に被害者とは限らず、知らず知らず加害者にもなっているはずである。何故なら、「悪気はない」つもりで発している言葉なのだから。第三者への愚痴で気が済む程度のことが多い以上、相手が傷ついたかどうかを加害者側は知る由もない。

犯人探しみたいで恐縮ではあるが、「悪気はない言葉」に関し何が一番「悪い」のかを確認する一つとして、統計的に「悪気のない言葉」を「一番多く発する人」という計り方が考えられるのではないだろうか。その際、「あなたの友達の中で誰が一番悪気のない言葉を発すると思いますか」と一人一人にアンケートを取るのは人間関係を台無しにするので止めよう(笑)。そうではなく、あくまでもひっそりとプライベートに統計を取ろう。これまで接した様々な人たちを頭の中に思い描き、人から聞いた話、自分自身が人に話したこと、それらの中から誰が「悪評」が多かったかをチェックしてみよう。誰が出てくるだろうか。

悪評のトップに躍り出た人は、少なくとも何らかの”反省”が必要な人物なのかもしれない。だが一方では、あなたのことを知る誰かが悪評チェックをした結果、あなた自身がトップに上がっているかもしれない。”反省”すべき人物を頭の中で描くと同時に、誰か第三者の頭の中にあなた(私も含め)が、”反省”すべき人物として俎上に乗せられているかもしれないのだ(笑)。

どちらに留学を.......HappyWinking

英語修得に関する理論的考察は言語学や英語学の専門家に任せるとして、私なりの見解を述べてみたい。


言語学習の達成過程の特徴を階段で示してみると、上記の図のように一つの段の長さがかなりあり、地道な長い歩みの末に次のステップが待っている、という図式なのだと思う。


達成過程にはもう一つ特徴があり、ある日突然その成長に気づく、ということ。つまり急に「あれ、理解できている」というような感覚が訪れるということである。
階段の段差があまりないのはそのためであり、いつの間に昇ったのだろうという不思議な感覚なのである。

(イラストがいまいち巧くないため、左の人はかなり足を持ち上げている格好になってしまいました。 汗)

上記の特徴から言えば、牛歩に見えようとなんであろうと、地道に一歩一歩進んで行くことが修得につながるのだと思う。継続は力なり、である。


ところが挫折しし易いのも言語学習の特徴である。挫折者を表すならこんな感じだろうか。上図は一つの段を拡大してみたもの。
一番左の人は、その長〜い一段のゴールをチェック。見渡せども次の段が全く見えない。スタートしたばかりなのにせっかちな人はいますよね。
真ん中の人の場合は、地道な歩みを続けてはいたけれど、なかなか成果を感じられず、肩をがっくり落とし、そろそろギブアップになりそうな感じ。せっかくここまで頑張ったのに止めちゃうのね、という残念な類。
一番右側の人は、たとえて言うなら、週に一度は英会話スクールに行っているのに、どうしてなのぉ、毎日やらなきゃいけないのぉ、そうはいってももう結構長く通っているのにぃ、スクール代、教材費、こんなに使ったのにぃ、と座り込み、涙する(ちと大袈裟か)。


でも、ちょいとちょいと右側の人、座り込んだそのすぐ先に、もしかしたら次の段が待っているかもしれませんよ。残念!



繰り返しになるけれど、カギは止めずに続けることだと思う。このステップの特徴に”慣れ親しむ”ことができれば、そのうち次の段までの距離感もなんとなくわかってくるものである。
修得の段階によってはもちろん山あり谷あり、紆余曲折を余儀なくされることもあるけれど、基本は継続。そして継続のためにモチベーションを維持すること。そうすれば必ずその先には「達成感」が待っているはず。


周囲の人たちから、「留学はアメリカですか、イギリスですか」と聞かれる。何故かオーストラリアやニュージーランドがないのだけれど。英語で話しているのを目撃、夫が英語圏の出身、色々質問のきっかけはある。

答えは常に「ノー」。英文科でもないし、留学でもない。勉強としての英語は学校のみ。帰国子女でもない私は「ペラペラ」とは言えない。

読み書き文法は学校英語でそれなりに十分かなと。でも日本人に欠如していると言われる「会話すること」「聞くこと」、これらはNHKラジオ英会話を活用した。なんといっても安上がりである。テキストは300円ぐらい。カセットテープも販売していたが、そちらは1000円ぐらい(もうちょっと高かったかも)だったのでパス。ラジオはテープに録音すればタダも同然なのでそうすることに。私がラジオ英会話を聞いていた頃、ソニーのウォークマンが流行っていて(古っ!)、競合メーカーも同様のミニカセットを出していた。私はラジオ機能も付いたアイワを購入。カセットテープにNHKラジオ英会話を録音し、電車の中で聞くようにしていた。

はっきりとした名前は覚えていないが、NHKラジオ英語には初級編や中級編があり、ビジネス英語もあった。先の階段よろしく、歩みを続けていたある日、突然に「あれ、聞き取れている」という自分に気づいた。その後もまた地道な歩みを続けていると、初級編は中級編に成り代わり、中級編はビジネス編に移行した。


日本の「英語熱」はまだまだ続いているように感じる。しかも、手を替え品を替えではなく、昔も今も英語上達ハウトゥーものは同じ事を繰り返しているように見える。それでも英語修得ならず、という結果。英語ビジネス界にとっては特に真新しい方法論を取り入れる必要もなく、ずっと同じネタでやり続けることが可能。もちろん、「普遍」という言葉が示すように、何かを修得する際の普遍的な方法を否定はしないし、その意味では英語修得も然りであろう。

しかし、先の「階段」を身を以て知った一人として言いたいのは、継続は力なり、である。止めなければ、達成できる、これに尽きる。そして自分の英語レベルに合った勉強方法であれば(人によっては自分が気持ちよく学べる雰囲気さえあればいいのかもしれないが、個人的にはちょっとダウトな気が)、どのやり方を選ぼうとも問題はないと思う。

塗り作業のあり方HappyEmbarrassedFoot in Mouth


デッキの防腐剤塗り作業。右は3年ほど前。左が今年。数年でかなり色があせるものですね。


デッキは北側に設置。家の陰になるところはどうしても乾きが遅い。まだ白っぽく見えるところはこれから塗るという段階なのですが、塗り終わった今も完全に乾くまでには時間がかかりました。

夏の太陽光線は真上から降り注ぎ、北側が陰に隠れることはなく、あっという間に乾きます。また、本当は3度塗りの予定も2度塗りで今年は終わりに。これまた、ジリジリ灼熱太陽光線はあっという間に乾かしてしまいますが、秋は違います。晴天が続いていても気温の低い秋では夜露の乾きも遅い。

涼しいからといっても塗る時期は多少考えないといけませんね。塗る部位や場所(方角)によっても違うのでしょうけど。今後の塗り作業の教訓といたします。はい。


名誉の汚れです。