以前より優しく、という難問奇問WinkingHappyLaugh

「人に対し、以前よりも思いやりや優しさが持てるようになりました」。色々な人からこうした主旨の言葉を良く聞く。私自身も発する事がある。カッコ内を結果とすれば、その原因となったのは、自身のツライ経験、ツライ経験をしている人に寄り添ってあげた経験、この2種類が多かった。つまり、ツライことを通して優しくなれたということだ。確かにツライ経験は人を優しくしてしまう、そんなパワーがあるかもしれない。

だが、失礼ながら言わせてもらうと、「優しくなった」というはずの人があまり変わらない、というケースにも時々遭遇する。いや、実はこれは時々ではなく、自分も含め多くのケースに当てはまるように思える。

心理学に少々足を突っ込み、人の心と向き合う産業カウンセラーという資格も取得した。また、社会人としてそれなりに経験を積み、人とも多く接してきた。そういう50代の自分を少々高みの位置に置かせてもらって言うならば、「ひと」を見る目はそれなりに持っている(養われつつある)のではないかと感じている。その中で、あくまでも私の感覚の中ではあるが、「優しくなったはず」の人が「変わらない」という事態を垣間みる機会があるということだ。

心理学用語に、「オペラント条件付け」というのがある。簡単に言うと、オペレート、つまり働きかがあり、それによって得られる「喜び」のようなものがあることで、その喜びのために自発的な行動が繰り返される、というようなもの。もう一つ、「独立変数」と「従属変数」という用語もある。独立変数が「原因」、従属変数が「結果」だと考えれば早い。

先の「優しくなれた」人を無理矢理用語に当てはめてみる。ツライ経験は独立変数(原因)、優しくなれた自分は従属変数(結果)。ツライ経験に遭遇していた時の自分、ツライ経験をしている誰かに寄り添ってあげていた時の自分、これらがオペラントとなり、そこを経て培われた何かによって「人に優しくすること」を得、その行動を繰り返すようになる。

この研究にはかなりのインタビューを要するが、勝手な仮説を立てるなら、先の私の経験からは「ノー」であるというケースが「少なくない」と言わざるを得ない。

何故か。これもまた個人的見解ではあるが簡単に述べたい。まず、ツライ経験をした人に寄り添ったケースを考えてみよう。厳しい言い方をするならば、ツライ経験をしている人に「キツく」接する人はかなり極悪非道で、人でなし、ではないだろうか。傷ついている人が近くにいる場合、一般的には優しく手を差し伸べるものだろう。傷つき度合いにもよるし、その人への寄り添い度合いによっては、その後本当に優しくなった人もいることだろう。だが、この寄り添った経験が必ずしも「以前より優しく」ということを導くものではない気がする。

次に自分がツライ経験をした場合を考える。ツライ経験は確かに人を成長させる。だが、その成長は人への接し方にも表れるはず、という自信が湧くのではないだろうか。だが、何かに関して成長したことと、前よりも人に優しく接することができるという、この因果関係を保証するものは、意外に何も無い気がする。また、ツライ経験の多くは「人」が介在する。そしてそのツライ経験から脱却した時、自分にツライことを与えた人をもなんとなく許していたり、心理的に良い距離を置けるようにもなっている。だから、ツライ思いをさせられた「あんな人」でも許せたんだから、色々な人に優しくできないわけはない、と思ってしまう一面の心理はあるように思う。しかしこれは「喉元過ぎれば・・・」の世界かもしれない。次にツライ経験が襲ってきた時、また同様のすったもんだをやってしまう、これまた人間ではないだろうか。もちろん、以前の苦い体験を活かし、少しは上手に対処できるようになっているかもしれないが。

2つのケースを通じて感じるのは、人間は感傷的な動物であり、自己愛が強いこと、これらの要素が「以前よりも優しくなった」と確信させるのではないかということだ。これまた大きな仮説ではあるが、これらの要素が強い人(独立変数)ほど、ツライ経験の前後における「優しさ」変化がない(従属変数)、と感じる。

以前よりも優しくなった、ということはとても素晴らしい話である。ただ、それを誰か第三者が異口同音に語る事実があれば、その人は本当に「優しくなった」と言えるのではないだろうか。